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立体交差する分割
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抹茶碗の釉掛けでは胴を指で鷲づかみし、そのまま釉を掛ける。当然指でつかんだ部分に釉は掛からず指跡が残る。作る側も見る側もすでに常識で誰もそれを傷とは思わない。景色としてそれを観照する風すらある。 |
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カンディンスキーが天地が逆な自作を見たことから抽象絵画が始まったというエピソードは良く知られている。その日から画家は自然界の色や形に束縛されずに純粋に色と形だけを追求することが可能となり、自由を手に入れたという。しかし、その後の画家達は自ら描く対象を自らが作り出す必要に迫られる。無限の自然に対して、所詮は人の限界、その発想は有限でしかない。無限に自由が広がると思われた世界も実は発想の枯渇におびえ、自らの発想による作業や作品に倦怠を覚え、あるいはそのことにも気づかずマンネリズムや自己満足に浸ることのいかに多いことか。もちろん他人事ではない。私も含めて誰もがその危険性の中で制作を続けている。しかし、一度その世界を知った者には後戻りは許されない。時間を取り戻すこともできない。さりとて過ぎ去った時代を懐かしむゆとりはさらさらない。 |
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六の中心を持つ円柱に内接する四角柱 根本から四本の枝が切り落とされた丸太がある。切り口に内接する四角形を罫描き、そこから丸太の中心に向って四角柱をチェンソーで切り出していく。丸太の上下の切り口も同様に切り出すと、それぞれが年輪の中心を持った六つの四角柱の集合体としての彫刻が完成する。私の制作方法は実に単純、その意味では誠に味気なく、機械的ですらある。美術作品の評価として「自由」がある。それは「因われない心」でもある。また制作中に迷いがあっては、「自由」もない。「考えない」「時間をかけない」「直さない」私の三大鉄則だ。考えないとは、直感で全てを決定すること。そこには判断の余地がない。判断とは試行錯誤すること。二者択一である。そこには迷いがある。制作に時間をかけると、その間に様々な誘惑が待ち構えている。初志を貫くことは難しい。人とは欲深なものだ。己の実力も分からず、いつも背伸びをしたい。とは言いつつ、学び、考え、常に判断することは人が人であることの証でもある。やっかいなことに直感は瞬時に訪れ、持続しない。可能な限り少ない選択肢、最も簡単な手順、最短の制作時間。全てを直感で決定し、全てをその直感に委ねる。それは機械的になることでなければ、効率の問題とも決して相容れない。 |
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キャタピラが動き出すと地響きがするような圧倒的なユンボの五十トンのパワーは見事に樫の太い丸太を裂いていく。現代美術の最も重要な視点にコンセプトがある。「概念・発想」「表現しようとするもの」の意で使われる。私は「いかようにも美を生み出すしかない方法」と捉えている。現代美術とは一つにそのような方法を提示することだと考える。もちろん、どの枝を選び、どこで四分割するのか、繋ぎ合わせの材の形状・本数・位置、どこまで絞めるのか、その都度重要な決定だ。その選択が最終の結果も左右する。選択を間違えればコンセプトそのものも崩れてしまう。しかし選択はどこまでもコンセプトを最適に提示するため、言葉を変えれば処理でしかない。結果には必ずその元になった行為がある。それがコンセプトだ。コンセプトは方法だと先きに書いた。方法である以上、普遍性も必要になる。木の王者、堅い木と書く樫の太い丸太は人力ではどうにもならない。どのように割れるもユンボのパワーに任せるしかない。だがそれは決して偶然に頼っているのではない。その全てがコンセプトの範囲であり、丸太が変わればコンセプトは無限に違う作品を生み出していく。選択の一つ、ユンボのパワーは確実にその割れ肌に反映されている。選択の結果がコンセプトを支え、結果が常に伴うものがコンセプトに成りうる。 |
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今回の作品は一言で言えばヤジロベエである。彫刻の専門用語で言えばモビールである。中学の頃に美術の授業で聞いた言葉ならば動く彫刻である。ヤジロベエは支点と腕の長さと、腕の先に付けられた重りの積が釣り合うことでバランスを取る。その場合、腕の長さはその距離だけが考慮され腕の重さは一応無視される。しかし、今回の作品では重りの重量と枝の長さの関係のみでバランスを取ることにした。石の重りが空中に水平に止まり、その石から枝が空間で広がった形で浮遊させたいのである。支点には細糸を結び、天井から吊り下げる。なかなかバランスが難しい。枝が真っ直ぐならば割合簡単である。しかし、使用した枝のように曲がりが激しいものだと、力が下に向かうだけでなく、ひねりが加わる。わずかな支点のズレで全く希望する形にならない。一ミリずれただけでも駄目である。支点を見つけるまで何度もやり直し、大変な時間を必要とした。しかし、創作することはその時間の長さには関係ない。重さと長さが同じものだということを発見した瞬間なのである。そして、出来上がってしまえば制作の時間や苦労には関係なく、あたかもそれが当然のようにその場に存在することになる。苦労はしたが一度決まると、枝が部屋の中の空気の動きを感じて本当に静かに回転を始めた。 |
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三回続けて愛知子供の国でのインスタレーションである。今回の仕事は前々回とは反対に木の枝の太い部分を中心に集めて円形に並べてみた。この一連の仕事では素材の枝探しも実は人まかせにした。公園の植木職人さん達が枝落とししたものを集めて頂き、その枝を見た時に思いついたまま並べてみた。特に今回表紙のことばに登場するインスタレーションに使用したものは、自らでは決して選ぶことのない枝である。しかし、不思議なことに、どのようなものであれ、目に見えない所で秩序や法則とでもいうものをその内に秘めていたり、それに支配されている。そのようなものに作為を盛り込まず、行為を投げかけることができれば自然と納得できる形が生まれる。ことさら先に作りたいイメージがあるわけではない。その素材が自然と導いてくれる形というものがある。かと言って、毎日、目を皿のようにしてその秩序や法則を探している訳でもない。たまにふと思いつくのである。その時にすかさず手を動かすことを心がけている。すると必ず行為の結果としての形が残る。物と物、あるいは物と人との関係には、美しくならざるを得ない自然の摂理とでも言うものが必ず存在している。それを求めてひたすら手を動かし続けているというのが、あるいは私の美術というものだろう。 |
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前回と今回の作品は共に、愛知子供の国の依頼で制作したインスタレーションである。インスタレーションとは仮設の意で、展覧会の期間中だけそこに設置して会期が終了すると撤去される作品のことをいう現代美術用語である。最近はこれが大流行で平面(絵画)の作品を発表すると「まだ平面をやっているの」等と言われてしまう。この用語も実は欧米では先に書いた意に限定したものではなく、従来の作品を会場に作品を展示することも同じ言葉を使っている。欧米のギャラリーでは会場での作品の展示をとても重要視する。一つにはそのことから発展した用語及び発表形式なのだが、一度日本に入ってくると、その展示の新鮮さから「これからの美術はインスタレーションだ」となってしまう。一つのスタイルが脚光をあびると全てそれ一色になってしまうのは現代美術だけではないが、困った傾向である。そんな反発からここしばらくはインスタレーションの発表は控えてきた。しかし、子供に「こびず」「分かり易い」美術を考えなくてもかまわない、の担当課長の声に勇気づけられ、久々のインスタレーションである。公園内に落ちていた枯れ枝を集めて壁に円を描き、空間を埋めていく。枝は選ばず、考えず、手に取ったらそのまま壁に取り付けていく。方法はいつもと変わらない。 |
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実は、放浪の俳人井月の墓参りを山頭火の日記と共に辿った一冊をこの春に上梓した。懐かしさの漂う写真にも助けられて美しい本に仕上がった。私はこの本を刹那と言う言葉で締めくくる事にした。刹那とは極めて短い時間を意味する仏教語だが、刹那的となると、どうしようもなく瞬間の快楽に流されるという受動的なものとなる。それが刹那主義となるとそこには瞬間に対して全力を尽くすという能動的な意味合いがある。山頭火の生き様は明らかに刹那的だが、その句が輝くのは刹那に生きた瞬間である。普通、とてもではないが山頭火のように見事(?)にだらしなくは生きられない。しかし、時として制作の手順やその結果としての形が同時に、しかも瞬時に訪れることがある。今回の仕事もそのように生まれた。一つの枝を等分に切り、それを順に直角に結んでいっただけのものである。表紙に使ってきたこれらの仕事はみな一様に小さい。勢い制作時間は僅かである、そのときの感情がそのまま形になって現れる。反面、いかようにも安易なものに流される危険と隣あわせである。それだけに出会いの瞬間が重要な意味を持つ。その点で彼我に違いはない。俳句は実のところ分からない、しかし俳句に潜在的に親近感を感じるのはそのような事からなのだろう。 |
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一本の枝から細い枝が二本出ている。この枝は確か富士の一合目で手に入れたものだ。痩せた土地特有のひょろひょろした枝が気に入り、アトリエまで持ってきておいた枝だ。枝を適当な長さに切り落とす。すると三本足の枝ができる。ある物を安定して立たせる(立たせなくても寝かせても同じだが)ためには三点の支点があればいい。三本以上だと着地の位置が全て同じになるように足の長さの調節が必要になる。さて、今回のテーマは、どこから見ても枝を垂直に立たせる事である。そのためには足の長さが一本短い。そこで庭にあった石を突っかい棒ならぬ、突っかい石とする。これで完成である。その内、風でも吹けば倒れてしまう。美術がやっかいなのは絵画であれ彫刻であれ、残るがゆえに物品売買としての経済的価値がいやおうなく生まれる。結果的に残らないものは、美術としては認めがたいという風潮も生まれた。しかし、音楽であれ、演劇であれ、ダンスであれ芸術の全てが残るわけでもない。もちろん、CDやDVDで残すことは可能ではあるが、残る芸術は少なく、完全な形で残される美術こそが特別なのだ。無価値な物に価値を見い出すことが芸術の本質なのだろう。そのことは芸術作品の売買を否定するものでもまたない。 |
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無垢の鉄の塊を四分割にしてできた扇形を積み重ねたものである。同じ四分割でも石や木ならば割ることもできるし、鋸で切ることもできる。木を切る鋸には細かな目もあれば荒々しいチェンソーもある。鉄は割ることはできないが切ることはできるし、溶断することもできる。素材と分割方法によってその表情は全く違う。現代の美術で最も重視されるものに作品のコンセプトがある。コンセプトとは一般的には概念と訳されるが現代美術の用語としては、美術の新しい視点や新しい意味付を主張することである。第二次世界大戦以前の近代の美術は個性を表現することが重視された。しかし、現代の絵画には何をどのように描くかという造形上の問題よりも、描くという行為あるいは表現という行為は人間にとってどのような意味を持つのかというような根元的な問題を問い直そうという姿勢が顕著に現れている。そのことだけを考えると、何をどのように四分割しようかということはさほど重要な問題ではない筈である。しかし、コンセプトに基づく行為がもたらす結果は常に視覚によって判断され、そのことが現代の美術の形式がどのように前代の美術と遠く隔てていようとも現代美術が美術たる所以なのである。 |
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それがどうしたと言われても困るし、くだらないと言われれば二の句はない。 |
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行為はどこまで減ずることが可能だろうか。思いを込める量と結果が比例するとは限らない。二つの枝を手に取り、糸でくくる。それでも、いつの日にか、手に取った枝をそのまま自信をもって、そのまま提示してみたい。 |