豊橋市美術博物館友の会だより
風伯
2008年ー春号

「これからの豊橋の美術館を考える」その4
インタビュー全録




(◇・・・女性1 ◇◇・・・女性2)
司会 最初に味岡さんが今のようなお仕事をされているっていうのは分かるんですが、味岡さんの中で記憶にある美術って、子どもの頃にどういった思い出がありますか?

味岡 僕は中学2年生まで、美術、音楽、書道、そして子供のころ病気してたから体育も、情操教育といわれるものは、全て5段階評価の2だったのです。そのため自分はそういうものに一切関係のない人間だと中学2年生までは思っていた。それが中学3年生になって高校受験でそちらの分野の成績も必要となり、それらも含めて真面目にやらないとどこの高校にも入れなくなるという非常事態に初めて気がついたのです。
 仕方なく中学2年生の終わりから授業をまず聞くようになった。音楽はハーモニカの練習をテストの前の日にするようにした。美術は先生の言ったとおりに作った。ものをよく見て描けと言われたらその通りに。美術も音楽も先生の言うとおりにすることが美術や音楽の授業なんだと気がついたのです。その当時の僕は美術や音楽は自由なんだと勘違いしてた。(もちろん、その当時の僕の考えは、本質的な意味では今でも正しい。)成績を上げるためには先生の言うとおりにやるしかない、自由にやっては成績は良くならないということにやっと気が付いたのです。先生の目的に合わせて出来る限り正確に先生の望むものを描けば美術の成績は上がります。今もってそれは美術とは関係のないものと僕は思っているけど、受験のためには仕方がない。
 それが僕の美術とか音楽についての最初の思い出です。
 成績が悪かったから、美術や音楽、書道などすべて、僕が今関わっている分野ですが、それらは基本的に関係のない世界と思っていた。それでは美術に全く興味がなかったかといえば、そうでもなかった。あるときピカソのゲルニカのエッチングの展覧会を名古屋の百貨店で見た。それには物凄い感動というか、いいと思った。今見てもやはり素晴らしいですよ。おそらく、中学生の頃だと思うのですが、そのとき僕はピカソはすごいと思った。

◇どうして行かれたんですか?

味岡 誰と行ったんでしょうかね。覚えていません。しかし、それがとても素晴らしいものだったことだけを覚えているのです。今でもピカソは分からない絵の代表のように言われてますけど、僕は素晴らしいと思って見た。今もピカソは好きです。ピカソの絵は分かりにくいものではありません。むしろ、今も昔も僕にはとても分かりいい絵だし、デッサン力も何もかもが素晴らしい。
 それともう一つ、僕が27歳の初個展でこんな経験があります。植物学者の恒川先生ってご存知ですか。その方がみえたのです。その展覧会で僕は少々くさっていた。2、3日前にも酔っ払いが入ってきて、何でお前はこんな訳の分からない絵を描くのかと、絡まれたりしたのです。(普通の人から見れば訳の分からないものを作っているのは今でも変わらない。)他の方にも、なぜお前はわざと人に分からない絵を描くのかと言われてて、がっくり来ていた。ところが最終日間近に恒川先生が入ってきて、じーっと作品を見て、「おい、君」と言うものだから、また文句かなと思ったら「りんごの絵が描いてあればりんごだと分かる。しかし、それだけで絵描きが何が言いたいのかは分からない。君の絵は何も分からないが、絵の裏に僕は何かを感じるからとても好きだ」と言われたのです。それが僕には画を描き続ける大きな力になった。一人でも二人でもいい、ものを作り続けていくためにはそういう言葉が要るのでしょうね。
 美術に係わってきたきっかけや。心に残る印象といえばそんなことです。
その後、先生の期待に応えたのだから、当然のように中学3年のときに成績がぱっと上がるわけです。ところが、その頃の美術(当時、中学生が見ることのできる絵)は、具象画だったり、俗に言う、もう少しわかりいい美術だった。しかし、僕は当時そういうものに全く興味が持てなかった。それは今も変わらない。それは、その絵を僕が分からないということではなくて、僕が描く対象と思えない美術だったのです。

司会 それは中学の頃からそう感じてしまった?

味岡 はい、そうです。まったく興味を持てなかったのです。僕は音楽も同じなのです。音楽に興味を持った最初が現代音楽なのです。特に興味を持つようになったのは、ニューヨークで現代音楽のコンサートで鳥肌が立つような感動をしたことからです。それはリズムもメロディもない、普通で考えれば雑音のような音楽でした。当時、世界で最も進んだ音楽の一つで、翌日のニューヨークタイムズでも大きく取り上げられたコンサートでした。

司会 それは誰の作曲の?

味岡 いや、鈴木昭男という音楽家の即興演奏です。それも手に持った小石を叩くだけの演奏で始まりました。僕はその最初の音でびっくりしてしまったのです。それでニューヨークのマース・カミングハム・カンパニーの音楽監督・小杉武久さんに(最初の音楽監督がジョン・ケージ、次がデビット・チュードアそして小杉武久です。舞台監督はジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグが担当していた。)コンサートの後、紹介していただいた。小杉さんはその当時、日本では一部の人にしか知られていなかったが、数年前の日本公演ではVIP待遇でした。以前、僕がコンサートを企画していたりしたため、家にも泊まりに来ていたのです。そんな経験が、僕にとって音楽が音楽として近づいてきたときです。
 翌日空いてるからと、朝から夕方まで鈴木昭男と二人で話してた。彼が別れるときに言ってくれた言葉が印象的でした。「同じ時代の痛みを背中に背負って生きる友達に出会えて幸せだ」で、彼が帰国後もずっと交流は続いた
 その後、彼をアーティストとして尊敬していたから、「アーティストとして必要なことってなんですか」と彼に聞いたことがあるのです。彼が言うには「まず、過去を知る」過去というのは美術、アートの歴史を知りなさいということです。「そして未来を知る。」アートが将来どこに進むべきか。何のために存在するのかということ、今日のテーマの美術館は何をすべきかも、もちろんそこに含まれている。
 「そして今、自分はどこに立っているかを知る」すると自分が遅れているのか進んでいるのか、ちょうどいいのか。自分が今後やらなくてはいけないこと。遅れているなら学ばなくてはいけないこと、社会と離れすぎているなら、社会との接点をいかに持つかを考えなくてはいけない、そういうことを考えるのもまた、美術館のひとつの仕事です。そのために過去を学ぶのです。未来って言うのは、作家にとっては自分の未来をどうするのか、美術を通して何を言っていくべきか。美術館にとってみれば未来に向かって何が必要なのか。市民に今後何を還元するかなどです。その点では、アーティストも美術館も同じだと思う。そういうことを彼は僕に教えてくれたのです。

司会 今のお話の中に後半のいろいろなテーマが入ってます。そこでもうひとつお聞きしたいのが、今の立場だとご自身が作家として表現していい訳ですよね。同時に我々みたいな受け手のことを当然考えていいわけです。そういうことを考えたときに、味岡さんとしてはご自身のアートをどういう位置付けで送り出してみるのか、気持ちを込めてみるのか。どういうメッセージを我々は受け取ればいいのか。そこに美術の人間の生活の中におけるポジションが見えてくるような気がするんでお聞きしたいんですが、そこはどうですか?

味岡 アートはどこへ向かうべきかという問題を考え、まずアートとは何かと言ったとき、いろんな定義があるけど、僕なりの解釈をすると、人間の行為はすべてアートになるべきだと思っています。最終的にはそれが理想です。ということは人間の営みそのものが美に彩られる世界を求めることでもあります。ビジネスもそうですし、学ぶこと、昔で言うと修行すること、食べるものを作ること、着るもの作ることなど、人間の営みすべてを二つに分けて考えると、生きていくために直接必要な部分と、それとは別に感覚的な営みの部分があるじゃないですか。それがアートの世界だと思っているんです。つまり人間というものが生きていくためには、その両方が備わって完結すると思うのです。
 なぜアルタミラの洞窟に壁画が描かれたのか。もちろんそこには呪術的な意味があり、牛を描くことによって牛を得ることができると洞窟の人々は考えた。民俗学的に言えばそれを感染呪術と言う。文学的に言えば言霊の考え方。その言葉を口に出すとそれが実現する。そのために絵を描いたと説明できます。生活のための行為と絵を描くこととの間は昔はもっと近かった。それがいつしか離れて生活と芸術という二つの営みになったのですが、それを再びすべての営みが美となるような、芸術と日常の営みがすべて美に彩られる、そういう関係を創りだすことに芸術は向かわなくてはいけないとい思うのです。理想論的に過ぎるかもしれませんが、現代はその過程で、今はそれが音楽であったり美術であったりに限定されていると思うのです。芸術は直接に生活には関わらないが、その両者が調和することで、人間社会が成立すると考えています。人間にとって、必要のないものなら今まで切れ目なく続いてきたことが説明できません。
 そして将来、人間の営みがすべて美しいものになる方向に向かって、現代の美術は確実に歩んでいます。美術の分野が、昔は絵を描くことだけ、彫刻を作ることだけだったのが、現代美術は明らかに営みそのものを美術にするという方向性の中で様々な分野に広がってきているように私には見えるのです。

司会 絵を描くとか彫刻とかは簡単でしたよね、ある意味では。それが生きていくこと自体が全部がアートだと、広がってきたとおっしゃったけれども。

味岡 現実はなかなかそうならない。

司会 そうならないんですよね。

味岡 現実は簡単にそうならないけど、そこに向かうことが大事なのです。現代アートはそういう方向に確実に向かっています。それがアートの領域が広がっているということです。一般の人からの現代美術は「分からない」という声が多い。何をやっているのか分からないし、何でこんなものがアートなんだという意見も多い。見る側は現代美術をそれまでの絵画や彫刻の概念で現代美術をみるからどうしても分かりにくいものになるのです。
 そこで、我々がアートを見るときに第一に考えなくてはいけないのは、例えば、日本で人気が高いのは印象派の展覧会です。しかし、印象派は19世紀の終り、100年前の作品なのです。ここに出席している人は誰も生まれていない。そんな前の美術しかわからないという現代人はおかしいと思いませんか。普通に考えれば100年前の人より、現代の人の方が分かるはずでしょ。しかし、美術を鑑賞する人々の間ではそのことはあまり疑問にされてこなかった。
 印象派展は今でこそ熱狂的に客が集まるけど、その頃は「うすぼんやりして訳のわからないもの」という意味で、「印象」という言葉を使っていた。印象のないものという意味の印象だから、いい印象という意味の印象ではない。
 ヴラマンクっていう野獣派の画家をしっていますか。その画家は当時、人も絵も野獣って言われた。それが約80年ほど前の画家です。以前、米兵が沖縄の女性に乱暴したとき、クリントン大統領がその行為をアニマルと言ったですね。それと同じ言葉を当時の人々は、ヴラマンクに投げかけるわけです。つまり「人間じゃない」と言ったのです。そこまでの侮蔑の言葉を投げつけた作品が、今では世界の国立美術館に収まっているのです。
 つまり、歴史を知れば、美術が分からないというのは普通のことで、あとにきっと質問されると思いますけれども、「開かれた美術館」なんてとても嘘っぽいのです。これは印象派や野獣派の例を考えれば理解できることです。さらに言えば、一般大衆に支持されるものが現代の美術であるはずもないのです。なぜ美術に分かる物を要求するのかという疑問が僕にはある。分からなくていいじゃないですか、わからないから可能性もあるかもしれない。分かるものはそこまでですよ。
 なぜわからないものしか認めようとしないのかというと、一つには美術が分からないと恥ずかしいというコンプレックス。(このことについてはこの後で話せると思います。)
 もう一つの理由は、美術は一般の人には実利をともなわないからです。例えばアインシュタインの相対性理論を皆さん説明できますか。ここにいる人だけでなく、殆どの人が説明はできないですよ。でも価値としてちゃんと認められているじゃないですか。分からなくても認めているというのはどうしてですか。結果として、広島、長崎に原爆を落としただけじゃないかと批判することだってできます。でも認められているでしょう。そうすると、美術館にわかるものだけ展示すると言う発想はとても陳腐なものに見えるはずなんだけど、どうしてそこの矛盾には気づかないのだろう。
 豊橋で美術館の予算がないのならば、高額な古いものを買わずに新しいものを買えばいいのです。古いものは定評があって高い。新人作家は安いが将来どうなるか分からない。だから新しい物は危ないと思うでしょ。

司会 評価が決まってませんものね。

味岡  そこで、美術館は何をする場所であるべきかという話になりますが、美術館は美を通して人々を啓蒙するため、あるいは美術というものの本当の意味を分かってもらう活動をする場所と定義したとします。そのとき、100年前の評価の定まった何億もする作品を買うことが本当にいいのか。それとも、現代の若い作家の作品で学芸員がこれはと思うものを軒並み買うことにします。それで100点の内、99点が見込み外れだとします。それでも、残り1点が100倍の価値になれば、それで計算上は同じでしょ。
 学芸員が見識を持って集めたら100分の1っていう確率は絶対にないはずです。行政の分野でよく使われる費用対効果という言葉があるが、美術館に1点しか飾れない物と、どちら本当に豊橋の未来にいいかという判断です。果たしてその一点だけで人が育つのでしょうか。しかし後者の方法ならば若いアーティストは確実に育ちます。そこで、豊橋の美術館はどう判断するかということになる。そういうことを本当に考えているのか、豊橋の美術館をどうするかというのはそこから考えなくてはいけない。
 豊橋に美術館が必要なのかどうかと言うことは僕には分からない。何故かと言うと、そこまでの決心が僕には見えてこないから。豊橋の美術館は何を特徴として、何を展示し、市民に何を提供しようとするのかが見えてこない。何のために美術館を作ろうとしているのか、僕には見えない。何を収集して何をどのように展示しようとしているのかという根本的なものが「美術館を作ろうという運動」の中で見えていないのです。
 それでは、この何十年「箱もの行政」として市民が行政を批判してきたと同じことを、「美術館を作ろうという運動」の中で市民がこれまで批判してきた「箱もの行政」を市民がするという矛盾じゃないですか。まず箱を求めているでしょ。そこで何を収集して何を見てもらい何を市民に提示するのか、学芸員はどうあるべきかというのは、殆ど聞こえてこない。その部分がもっと検討されなくてはいけないのです。
 今日の話をお受けした時、僕は今の友の会の新美術館の活動とか美術館のことに関して必ずしも賛成派にならないかも知れないですよ、と言ったのはそこに関わるのです。
 僕は逆に聞きたいんです。友の会として豊橋の美術館で何を期待しているのか。豊田市にはいい美術館ができた、全国のあちこちにもできた。豊橋にもないから作りたいというのは、それはまさに箱ものですよ、その中で何をするのかはっきりさせて下さい。それが見えてきた段階で初めて美術館をどうするのか、というのが出てくるのですよ。
 それともうひとつ。日本中に美術館が山ほどあって、潰れる館もある中で、豊橋の美術館はどうあるべきか、同じような美術館をいくつも作っても意味がない。要するに今は豊橋にはお金がないと言っている。お金がないときにすべての意見を網羅する美術館なんか絶対に作れないのです。そうした時には特色ある美術館を作るしかないわけですよ。
 例えばひとつの例として、先ほどの話に戻すと、100点買って1点残ればいいと、覚悟を決めれば、豊橋を中心に100キロとか50キロとかの円を書いて、そこに含まれる優秀な若手の作品を全て買い集めていくというようなことを考えるのも面白い。
 それともお金がないのであれば、建物は今のままので、せめて改装だけは許していただく。そして彫刻を中心とした美術館にする。豊橋公園をメインに収蔵した彫刻を設置していく。それを豊橋の街中にも広げる。美術館から市役所、そして駅まで続く彫刻の道。その道一帯を彫刻の美術館にする。これならば彫刻を買う金は要りますよ。しかし新しい美術館の建物は必要ないってことでしょ。これはそうしろと言っている訳ではなくて、方法はいくらでもあると思うのです。
 今の美術館の改装では大きな展覧会はできないという意見もあるでしょう。しかし、一度に大きな展示ができなければ3回に分けてもいいじゃないですか。要は何をしたいのか、それがはっきりしなければ美術館を作っても何の意味もないと思うんです。
 そして、怖いことは美術が分からないのに決定する人達の存在。現状では市長、議会にもはっきり言って学芸員の人もそこまで分かっている人がいるとは僕はとても思えない。次にそういうことを理解して進めたとした場合に、豊橋はこれでいきましょうと、市長、議会に説得するだけの能力があるのか。どうしても美術館が必要ならば、そこに時間をかけるべきで、その説得さえできれば美術館はあっという間にできるはず。なぜ進まないかといえば、その説得力が欠けてるからと思うのです。問題の本質はそこにある。
 ただ現実問題として、展示室については、今の設備を最大限利用してできる範囲でやればいいと思えるが、絶対的に豊橋の美術館で欠けているのは収蔵庫だと思います。美術館の発生は基本的にコレクションから発生してますね。美術館にはコレクションがあるはずなんです。今度できた新国立美術館のようにコレクションのない美術館もある、しかし、英語ではミュージアムと言えないから、英語名だけは正しい表記 “THE NATIONARL ARTCENTER.TOKYO” にしているのです。ARTCENTERを美術館と名付けることで美術館の理解を妨げることにつながります。ある意味で国民を偽ることでもあるのです。
 豊橋も収蔵品にはお金を掛けて集めている。この内容が妥当かどうかは別にして、お金を出して収蔵したのだからそれは少なくとも後世に残さなきゃいけない。収蔵庫は今どういう状況か正確には知らないけど、おそらく、限界のはずです。

◇いっぱいでして、棚を増設しまして入れ替えをして棚に納まってはいる状態ですけど、この先のことを考えますと、明らかに・・・

味岡 不足のはずです。10年程前に新美術館の検討委員をしたことがある。計画図面を見て収蔵庫は何年後に埋まるの、と僕が聞いたら、答えは「15年後」。15年後にできる美術館が15年後には収蔵庫がいっぱいになるような美術館の計画は基本的に間違っていると発言したら、別の委員にすごく怒られてしまった。そんな何も知らない人が委員をやっていることも問題なのですよ。収蔵庫に関してはとにかく新しい美術館の計画以前に、急務と思うのです。これから買い続ける作品も傷む可能性があるのだから。
 収蔵庫は学芸員が研究施設として十分に活用でき、展覧会を計画できるだけの環境が整えば、別に今の場所でなくてもいい。市の遊休地にこの先何十年も利用できるような施設が是非必要です。人間は冷暖房が不備でも我慢できるが、作品は無理なのです。収蔵庫の方がむしろ展示室よりお金を賭けたいし、量も必要なはずです。美術館を美術の研究施設と考えれば収蔵庫がどうなっているかのほうが展示室より重要なのです。そのとき、展示室は学芸員の研究の成果発表の場なのです。学芸員が十分に研究できる環境を作ることが本当は美術館の本質的な問題なのです。これは豊橋だけの問題ではなくて、実は日本の美術館全てが抱える問題なのです。

司会 その辺のことはここの方でもはっきり言っているんですけれども、やっぱり収蔵庫の問題がなぜそういう想定というかシュミレーションが分かっていることにしてないのかということと、本来豊橋の美術博物館の持つべき機能、これがどういう方向、方針であるべきかということがはっきりしないままに立派な美術館、博物館をという考え方はおかしいとここではっきり言っている訳です。今改めて豊橋にとっての美術博物館がどういう方向であるべきかということをはっきりしないと多分建てればいいとか、○か×かの話じゃないと思うんです。

味岡 今僕に見えてくるのは、残念ながら、豊田にもできた、近くの3、40万のとこにできて、豊橋にないのは恥ずかしいからということしか見えてこないのです。豊橋の美術館でみられなくとも名古屋に行けばいいじゃないですか。新幹線を使えばもっと遠いところの美術館にも今は簡単に行けるし、その気になればニューヨークだって見に行けるじゃないですか。
 豊橋に作るのなら、豊橋にしかできない美術館っていうのは何なのか、建物の問題じゃなくて、何を収蔵して何を見せるかということを、まず決定していなければならない。
 そこで考えなければならないのは、おそらくこの問題は「優秀な学芸員の独断と偏見で勝手に決めるべき」問題かもしれない、ということです。皆で協議して決めるべきことではないのです。
 なぜなら、豊橋ですべてのことを網羅できるような美術館なんて無理なんです。
 地方美術館の使命として地方作家の育成と地方作家の美術の歴史を残すと言うことはこの地域の美術館でしかできない仕事、これは欠かしてはならない条件です。ただ地域のことだけでは、日本の美術の歴史、世界の美術の歴史を市民が知ることはできないのだから、最低一つの普遍性を持つ別のテーマが必要だと思うのです。
 今豊橋の美術館は、草土社と中村正義関連の収蔵の二本を柱にしていると思うんですけど、もうひとつの別のものがほしい。この二つは言わばこの地方の美術の歴史です。それはそれでもいいと思います。それ以外に一つだけでいいと思うのですが、それを徹底的に追求することができるテーマが必要だと思うんです。一つで十分です。豊橋には一つくらいの余力しかないと思います。テーマは普遍的で日本あるいは世界の美術の歴史に繋がるものであれば、何でもいいと思います。
 ところが市民が要求しているのはきっとそれではないのです。じゃあ、何を要求しているのか、イギリスのテートギャラリーが欲しいのか、ニューヨークのMOMAが欲しいのか、それは豊橋の美術館ができることじゃないってことを、市民に理解してもらうということも難しい問題ですね。

司会 この地域における美術博物館の役割ってどうあるべきなのか、今おっしゃったはっきりした方向がありましたよね。

◇でもそれは美術館の基本方針ではありますよね。収集の、地元作家の。

味岡 それは基本的に地方作家のものだけですね、今やっていることは。

◇だから地方作家のものでないっていう意味はちょっと出てないですよね。どういうことになるのかなと

味岡 地方作家に関しては、そのことは全然否定してないし、重要な問題だと思ってるんですよ。これは外せなんてことは少しも思ってない。それは当たり前のことなのです。
 それとは別に、普遍性を持つ別のテーマが必要なのです。それについて、今ぱっと出せと言われてもでてこないが、一つ考えられのは、大沢華空という書家が豊橋にいたことです。
 大沢華空が所属した「墨人会」には井上有一、森田子龍、江口草玄という、現代の書道に重要な足跡をのこした書家たちが所属していた。特に井上有一は京都の国立近代美術館でもたくさん収蔵しているほどの作家で、ハーバード・リードの西洋美術史の中で日本人としてただ一人紹介されたのが井上有一の「愚徹」です。横浜美術館で開催した戦後の日本の現代美術を俯瞰する展示で、アメリカの女性のキュレーターが展示の第1室の一番目に飾ったのも井上有一「愚徹」でした。
 その人たちの作品の相当数は2002年の岐阜県立美術館の展覧会「書くこと描くこと」にも出品されていました。僕はそのとき、担当学芸員との対談で会場に行ったのですけど、そこにも井上有一の「愚徹」が出てました。その展示は「墨人会」だけでなく、彼らと同時代に生きた世界的な抽象表現主義的な潮流を見直そうという意欲的なものでした。その仲間としてたまたま大沢華空が豊橋に居たのです。大沢華空は創立同人ではないが、確か2回目からの同人です。「墨人会」に関連する作品はまだ安く手に入るし、集まる可能性もある。その上「墨人会」はジャクソン・ポロックやフランツ・クラインなど、アメリカの抽象表現主義を代表する作家たちとも交流があり、共に展覧会もやっている。日本では関西の具体美術の人たちとの活動もある、日本あるいは世界の美術史での位置づけもできるのです。
 すると、このテーマは海外の評価の対象になりうる。うまく揃えることができれば、海外から専門家が来る事も考えられるテーマになるのです。将来的には草土社や中村正義よりも上のテーマになると僕は考えています。これも普遍性を持つ別のテーマの一つの考え方です。
 これだけに限らず、普遍性を持つものであれば、テーマは何でもいいと思います。哲学の考え方と一緒で、一つのある言葉、例えば「愛」という言葉があります。それを突き詰めていけば最後には一つの真理に結びつくのです。美術も同じだと思います。テーマはどれでもいい。それを突き詰めていけば、結論は同じところに行くはずなのです。だから、どれか一つだけが正しいということもないのです。一つ、思い切って決めてしまえばいいのです。
 ただ、総花的にすべての美術を網羅することはできないとになれば、当然、市民や議会から不満が出るのです。もちろん作家側からも出ます。どうして俺の作品は入らないんだと。そんなことは実は関係のないことなのですが、そういう勇気があるかってことです。市に、美術館に、学芸員に、市民のすべてがその勇気を認めてあげられるのか。それが可能となって初めて一つの方向性を持った美術館、そして、それにぴったりの建物をどうするのかという話になっていくわけです。
 先ほどの例えでいえば、彫刻の美術館だけにしようと決まれば、建物はもう作らない。箱への投資は一切止める。そのために一つか二つの目玉の作品が必要となれば買うのは仕方がない。それを起爆材にし、全国的な彫刻コンクールを開催していく、といった活動によって市民と共に美術館を作り上げていく。何十年か経てば結果が立派に形になるじゃないですか。それだのの勇気を我々は持てるのかにかかってきます。それを費用対効果の話で言えば、予算が将来的にどの程度美術館に使えるのか、展示の問題も建物にはお金はかけれないから、その代わりにこの分野だけには予算をつけてくださいというように要求していけば、豊橋という条件の中でこれができるというものに自然に絞られていくと思うのですよ。

司会 そこが実は一番難しい問題だと思うんですよね。この間、金沢の21世紀美術館の館長をやってた蓑豊さんに話を聞いたんですね。一つの見識を持ったキャラクターの人が全面的に自分の思い通りにやったわけですよね。

味岡 それでいいんですよ。

司会 それが豊橋にもあるべきだと。それが豊橋でもできるかどうかという問題ですよね。

味岡 そうです。誰かに任せてしまう勇気です。もちろん勇気の前に見識も要りますよ。最終的には、それを皆が認めるものを作り上げていくことは当然のことですから、それには相当な能力が必要となるのです。
 一つに絞るという事は、卑俗な言い方ですけど、誰かが得した損したという、そういう問題が必ず出てくるのですよ。
 例えば彫刻だけの美術館にしようとすれば、豊橋に彫刻家はほとんどいないから、当然絵描きは皆怒ります。それでこのアイデアは潰されることになるのです。それでも勇気を持って実行できるのかということです。でもこれからの問題はその勇気なしでは何を作っても一緒じゃないですか。それはどこにでもあるつまらない美術館を作るってことですよ。

◇星野さんのトリエンナーレは全国公募ですけれど、あれはもっと続けていくと一つ、全体を覆う、中心まで行くかどうかは知らないですけど、かなりなるんじゃないですか?

味岡 残念ですが、それは無理です。なぜ無理かというと、星野先生がトリエンナーレを企画したときに僕は星野先生と直接美術館でお話したのです。「先生は洋画も日本画もないと今まで主張してきたのに、なぜ日本画だけのトリエンナーレを開いて若手を育成しようとするのですか」と質問したことがあります。正直言って、星野先生に怒鳴りつけられると思っていた。すると星野先生は僕にこういうことを言いました。「味岡くん、もうちょっと待ってくれ。俺も中村も平川も大森も含めて、今の俺たちの地位は日本画だからあるんだよ。洋画日本画も現代美術もすべて含めた中で俺たちの今の地位は無い。だから日本画の若い子達にはもうちょっと時間を与えてくれないか。」と言われたのです。今まで先生は公にはこのことの話はしてないと思いますが、僕は直接星野先生から聞いて、「分かりました、もう二度と言いません、トリエンナーレの批判はしません」とその場で約束したのです。だから遅れている日本画をそれ以外の分野に近づけることの役目しかトリエンナーレにはないと思います。
 トリエンナーレの審査員をしている練馬区立美術館学芸員の野地耕一郎さんが企画した練馬区立美術館の「日本画−純粋から越境へ」展には僕も作品を3点出品させてもらった。そのカタログの巻頭に野地さんが、日本画と言うのは洋画の影でしか存在しないのだということがしっかり書いてあります。星野先生が言ったことを評論家的な意見でしっかり書いたものです。豊橋の日本画というものがある時期、日本画壇の中であるポジションを占めたということは間違いのない事実です。そのことをきちんとした形で検証して評価して展示することはいいことだと思います。しかし、それが日本の美術とか世界の美術の中でそれ以上の評価があるかいうことについては僕はないと思います。その意味で今後の美術館の普遍的なテーマには成長できないと思います。

◇ 日本画って言う言葉自体が無くなっていくのが本当ですよね。

味岡 無くなりますね。星野先生は、そのときまでトリエンナーレが続けば、その時になって初めて日本画と洋画が対等の中で勝負ができる。そのための時間をくれと言ったんです。

◇始めは画材の違いかなと、でもそうじゃないなとこの頃思い出してるんです。何が違いなのか分からなくなっている。

味岡 野地さんの書いた文章を引用すると、洋画の影ですね。洋画があるから存在できる。洋画が無くなるとその影も消えてしまう。日本画が洋画の影だから洋画があることによってその影が生まれるだけのことです。

◇ 洋画という言葉があってってもいいわけでしょ、洋画が無くなるってのは。洋画って言葉自体が変だものね。

◇ 今は画材だっていろいろだものね。

味岡 野地さんは山種美術館の学芸員を練馬の前にやってたのですけど、その頃にアクリルの絵が山種美術館賞を獲ったのです。日本画の画材以外で描かれた作品が賞を獲ったのだから、画材という意味では完全に消えたのです。

司会 じゃあ5番目の質問は今の4でかなり答えていただきましたけれども、6番目もダブってくるわけですが、具体的にはもうちょっとどうなんですか?4のとこでかなり答えていただきましたけど。豊橋の美術博物館はどのような見解で活動すべきとお考えですか?

味岡 現在の美術館のことですね。

司会 現在です。今。

味岡 まず、市民展を始めとした貸し画廊スペースは市民ギャラリーを別に作り、市民の美術愛好家の活動場所と本来の美術館活動とは分けてもらいたい。そうして、学芸員の人たちが充分に活動できるスペースと環境を作る。学芸員にスペースと環境と、できたら充分な予算を与えたら、どこでもやっているような外から企画を買った展覧会をやめる。どこでも見れるようなものだったら豊橋で開催する必要はない。それに企画屋さんの展示は面白いのが少ない。
 そのためには学芸員の環境をもっと充実して、人も増やす必要がある、箱を創るよりも人を増やした方がいい。学芸員の下にアシスタント学芸員を数名付けて、それぞれのチームが例えば3年に1度の企画展を計画する。毎年一つ大きな企画展を開催するとなると、3チームの体制が必要となる。外部の僕の思いつきの意見だが、せめてその程度の学芸員の配備はほしいところではないか。予算がないとなればそれも大変なことなんだけど、学芸員の問題は美術館にとっては最も重要な問題だと思うのですよ。
 必要なスペースはその後の問題として確保する。施設の問題で言えば空調や照明の問題もあるだろうが、それよりも展示がもっとしやすいものがいい。どんな展示にも対応できるようにしたい。今の美術館でも改装で十分対応できると思うのですよ。例えば、今の美術館には釘を打てないけど、打てるようにする。穴はその都度パテで埋めて使えばいい。そのためにも壁は白塗装にする。日本画だからとか、古い時代の絵だから合わないだろうというのは単なるノスタルジーだと思います。現代の人が見る環境であるならば、昔の環境に戻して見る必要はない。その証拠に仏像を見るのだって、今では美術館で見るのだから、そんなこと言ってたら仏像が美術館に出ることも否定されるべきでしょ。今や、全国どこでも、我々は寺から出た仏像を美術館で見ているのです。日本画も真っ白なニュートラルな空間で見ればいいわけですよ。真っ白い空間にさらけ出して、裸で放り出されて負けたら、それまでの作品ですよ。
 新しい美術館を作る予算がないとしても、せめてそういう現代の嗜好にあった美術館に改装するということは、そう難しい問題ではないと思う。
 新しい豊橋の美術館を考えるよりも、あるものを最大限活かす活動を続けて、その活動の中で学芸員も学び、市民も学んでいけば、その中から、新しい美術館の姿も生まれてくると思うのですよ。そういう試行錯誤の活動が今必要だと思うのです。海外には古い建物を改装してる美術館なんていくらでもある。今の美術館の煉瓦の通路だって、白くぬれば立派な壁面ですよ。海外のギャラリーには古い煉瓦を白くした壁面など幾らでもある。どうってことはないですよ。逆に今の時代にはそれがかえってカッコいいと感じる人は少なくない。
 僕は別に今の豊橋の美術館をそんなに悪いと思ってないのです。中庭のある空間も、それを抜けて緑が見える空間だって悪くはないです。ただそれを活用するかしないかは学芸員の能力です。それを展示室がないからいい企画ができないなんていうのならば、それは学芸員の怠慢だよね。でも、今の学芸員はそんなこと言ってないと思うし、そんなことではまずいと思う。

司会 学芸員にそれだけの権限があるのかね。

味岡 そういうことを含めてそういう体制をしっかり作ってもらうってことが重要なのです。

◇ 人が足りないことは確かよね。

◇ ◇物凄い足りないですよ。市長に言ったら20何人いるじゃないかって。要するに自然史博物館から何から全部入れて20何人だから全然ダメですよ。

司会 僕が言っているのは3年に1個やるためには3人ずつの学芸員がチームを作るんだったら9人は要ると。美術の学芸員だけでも9人位は増やしてよと。

味岡 そうなんですよ。建物を作り、美術館ができればそれで終わりじゃなくて、今の豊橋に一番欠けているのは、収蔵庫と学芸員でしょうね。
 昔「豊橋の学芸員の質はどうですか。」と市の上層部の人から聞かれたことがあるのです。
 それぞれの学芸員には長所も欠点もあるし、それぞれの専門分野もあるのだから、一人の学芸員が日本の歴史から世界の歴史も踏まえた美術全般を見ろというのは無理な話で、それぞれに得意な分野を担当し、そうでない分野には別の人が必要になる。少なくとも、今の若い人たちに現代の美術を知らしめることは必要ですね。それからさっきも言ったこの地域の美術を知らしめるために日本画の問題を専門とする学芸員も要ります、という風に考えて、豊橋に必要な分野にその専門を置くだけのことをしないうちに、学芸員の質はどうだこうだというのはいくら何でもそれは僭越ですよ。そういう話はそのことをクリアした後の話でのことですと言ったことがあります。
 とにかく一番後でいいのが、今日ここで問題にしている新美術館の箱じゃないですかね。もちろん美術館を作ることによってそれも解決できるということなのだろうが、それは一度に必要な全ての資金が必要になることで、それは現在の豊橋市では無理と決定したのでしょう。それならば、せめて学芸員を充実していい展示をしてもらいたい。そして、収蔵庫は早急に整備してもらいたいということです。
 収蔵庫の設備は金がいるけど、美術館の展示部門に比べれば建物そのものにはお金をかけずに作れるだろうし、遊休土地もあるだろう。
 それから、これはもう少し学芸員に頑張ってもらいたいことであると共に、教育の方とも関わることだが、ワークショップというか、子ども達との活動はもっともっと欲しいところですね。それも、学芸員が足りない、人手がない、時間がないからという話に戻るけど。

司会 そういう活動を展開することによって、こうやって人が足らないとか会場が整ってないってことがアピールできるきっかけにもなりますものね。

味岡 しかし現状の人たちで、それができれば足りているって言われるかもしれない。昔、僕も短い間、国家公務員をして組合運動をさせられたことがあるから分かるのですが、公務員の労働組合員はサボタージュして仕事をせずにどんどん溜めたっていうのはそれですよね。一生懸命仕事をして残業して片付けていくと足りていると判断されるから、サボタージュの運動をしました。上の人が理解しなければ、それと一緒になるかもしれないね。
 僕は幾つかのの美術館に依頼され企画展に出品してきたが、例えば刈谷市みたいな小さなところでも(学芸員2人)やっている企画は結構面白い。ワークショップも頼まれたが、30人定員が倍の参加になり、いっぱいの子どもたちと一緒の作業は相当おもしろかった。ああいう機会が豊橋の美術館でももっともっと増えていくといいと思うのです。学芸員がさらに頑張らなくてはならないし、時間もとられて大変だが、美術館の活動をもっと見てもらい、知ってもらうためには必要な活動の一つだと思います。子どもが来れば大人も一緒に来るということで、知らしめるためにはとても有効な活動だと思う。
 そのためにも市民ギャラリーは別に作って、貸しスペース業務は美術館とは別にしないといけないですね。
 美術館の中に一部専門の貸しギャラリースペースがある場合もある、豊田の美術館にもあります。そのことまでは否定しないけど、基本的にそれがメインであってはならない。その運営は美術館の業務と分けなくてはいけない。
 それと作家の略歴で、美術館での企画展示と美術館の貸しギャラリーで展示したのは意味が違うんです。そういうことは些細なことだけど、そういうことも区別しなければいけないのです。

司会 美術博物館が評価したのか、スペースを貸したのかは大きな違いですもんね。

味岡 それはどうでもいいようなことに見えるが、美術館の機能と市民ギャラリーのスペースをなぜ分けようするのかと言えば、市民ギャラリーの運営に学芸員は要らないってことです。市民のイベントの運営に学芸員が手を煩わせることはもったいないことです。職業に貴賤はないから事務員でもいいっていうのは事務の方に悪いけど、それは市民ギャラリーの運営には専門的な知識は必要ないからです。市民展もそうです。市民展の作品受付に学芸員が付きっ切りでする必要もないです。学芸員の資格を取る為に大学で専門知識を勉強してきているわけだから。専門の仕事をしてもらいたいというのは当たり前のことです。ただでさえ足りないのにそれで相当手を取られているでしょ。

◇ そうです。

◇ ◇事務屋さんにまかせようとすると絵のことは分からないからという感じで未だに我々が・・・

味岡 そういうことに対して、友の会が声をあげるのはいいことじゃないですかね。その活動の中で自ずと美術館はどうあるべきかが見えてくると思うのですよ。今の美術館の中でもできることはまだいっぱいあると思う。全国全ての市に美術館があるわけではない、とりあえず豊橋は美術館があるのだから、それをどう活かすか。もっともっと知恵を出し合わなければ。
 ところで、最近「開かれた美術館」という言葉を耳にするけど、僕はあまりその言葉が好きではない。第一、開放度は何で判断するというのだろうか、展覧会を入場者数だけで評価されるのも困る。来館者が結果として少なくても、必要な展示はあると思うのです。それができる環境をつくるという努力が、市にも、美術館にも、学芸員にも、友の会にも必要なのです。
 広島市に日本で初めて現代の名が付いた公立美術館がある。そこでの企画展「表出する大地」展に僕は出品した。その展示は2月に始まりました。僕らの美術は残念ながらどうしても客が少ない。そのため美術館に人が入らない2月と8月が僕らの展示できる季節となるのです。春・秋の美術シーズンは印象派などの人気の高い展示で、一年を通しての客を集めている。そうでもしなければ議会から批判されるからなのです。それはそれでいいんじゃないですか、そうして学芸員たちは頑張っている。

司会 美術博物館の責任者って誰?

◇ 館長は非常勤嘱託員ですから行政の直接の実権というのはありません。館のトップは副館長兼事務長になりますし、その上は教育部長、教育長、ただ教育長も名誉職というか、決定権はないですよね。

司会 やっぱり教育部長になるの?

◇ そうですね。だから部長も2年交代で替わっていくので、

◇ ◇必ずしも専門家ではないしね。予算のことしか言わない。

味岡 美術なんてものはこれまで世間に受け入れられたことはないってことも市民の皆様に知ってもらいたい。特に友の会の会員にはそのことは理解して頂きたい。そういうことの啓蒙も要りますね。開かれた美術館は嘘っぱちだと先ほども言いましたけど、それは欺瞞だとおもう、だって市民が支持して成立した美術なんて歴史に残ってないですよ。いつの時代もアバンギャルドなものだけがアカデミックになったのです。それは美術の歴史が証明している。おそらく今後もありえない。

司会 瞬間的に評価されることはないってこと?

味岡 たまにその作風が時代に受け入れられることはありますけど、それは例外です。基本的には美術はその時代に評価されにくいものだと思います。それは歴史をみれば明らか。それはとても重大な問題です。だから今、市民に評価される企画をそれだけの理由で安易に開催することは非常に危険なことです。
 例えばとても人気があるウィーンの分離派。愛知県美術館で収蔵した騎士の絵のクリムトのグループが、活動の拠点としたウィーンの小さい美術館、分離派会館の入り口にドイツ語で書いてある言葉は「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」です。ということは、彼らの芸術も迫害されたってことなのです。クリムトは19世紀末の作家で、今はとても人気があるけど、その当時にはそう訴えなくては活動できなかったのです。クリムト見たさにウィーンに出掛ける人もいるほどに人気のある画家でも、決して当時正当な評価を受けていたわけではないのです。当のクリムトは非難の対象でもあった。
 別の面から見れば、アーティストが一生絵を描き続けられたのだから、少数だが支えた人々がいたこともまた事実です。しかし、それも多数の市民のもとに美術があったことを意味しない。だって考えてみれば分かる。絵って高いんだよ。一般市民に買えるわけがない。欧米は画廊も多く、日本の美術市場よりもはるかに美術は市民に近いが、美術の歴史を見れば、美術を支えたのはまず王侯貴族、その後アメリカに渡ったときには新興財閥の人達がそれを支えて来たんだ。それが寄付されたり、そこが美術館になったのが美術や美術館の歴史なのです。ひどい言葉を使えば、金持ちが集めたものを、市民にも見せてやろうということから美術館は始まったのです。別に一般市民を僕は見下している訳ではない。そのことは事実の問題として頭にいれておく必要があるのです。。
 美術の歴史の中で多くの市民から喜ばれた美術がその時代を作り上げたわけではないということは知ることが大事なのです。皆が分かり合える美術なんておそらくないのです。皆の理解を得るためには、100年200年の時間が要るのです。常に迫害を受けたり非難の歴史があることは、美術を志したり、美術に携わる美術館も行政も、自分の知識、見識を踏まえて、勇気を持ってどこかで蛮勇を振るっても行動しなければならないときがあるということです。それは必ず付いて回る問題なのです。それができない人はその分野に携わってはいけないのです。
 昔の美術というのは必ずお金や生活と結びついていました。アルタミラの洞窟の絵だって牛の絵を描くことで、生活の糧の牛が得られるということで絵を描いたのです。王侯貴族の肖像画を描けば当然そこから報酬がもらえる。宗教画を描けば教会からお金が支給されるから描いたのです。宗教心だけでは人は生きていけない。
 ところがあるときから芸術家は芸術のために美を求めるという命題に直面したのです。それは作家の自由な意志で美術作品を作るということ。それは生活の保証を得られなくなったということでもあるのです。つまり美術家を助ける環境は必要だけど、それは美術家にとって絶対の環境ではない。美術家は自らの意志でそれを断ち切ったのです。これも確かなことです。それなのに甘える美術家は問題です。これも一つの重要な問題です。美術家達は自らの意志でそれを選択したことを忘れてはいけない。
 それまでは依頼されて絵を描いていた時代から、美を自らの命題にした瞬間に、それは自分だけの美となり、皆の美ではなくなった。個人で勝手に描いたものを評価してくれと言っても自らの意志で選択したことだから、それは生活の糧の問題とは全く別の問題なのです。
 美術館を始め、それらの運営に係わる全ての人々は、常にそれらの問題を孕んでいることを知らなくてはいけない。今のままの開かれた美術という「まやかし」を言って100年続いたらきっとゴミのようなものの集積した美術館になるでしょうね。

司会 我々見る側もそういったことを知った上で美術館に足を運ぶことが必要なんでしょうね。今回のお話がそういうきっかけになればと思うんですけどね。

味岡 知ってというよりも、学芸員がそれを知らしめなくてはいけない。しかし、それ以前に、美術教育が決定的に不足している。今、学校に美術教育がないんだから。僕は愛大で「芸術論」という講義を続けてますが、学生たちに高校までに美術の授業をどの程度受けたか、手を挙げさせると、ほとんど受けてないのです。そうすると保育園児のような相手に大学の授業するのかという悩みが、僕には常にあるのです。かといってそこまで落とす授業はできないから生徒たちは本当に可哀想です。
 印象派以前の写真術発明によって美術家は写真機では表現できないことを描くということに気付いていく。写真でできること、絵でしかできないことは何かを考えなくてはいけないという話から始めて、印象派から現代の美術の話まで講義するのですけど、印象派で止まってればまだいいんだけど、進むに従って学生達にはチンプンカンプンだと思います。

司会 高校時代美術はずっと受けてましたけど、講義は一回も受けてないですよ。描くだけ。

◇ 私は戦後、本当に戦争末期に中学に入ってそのまま高校になったんですが、昭和22、3年の頃、その時の美術の先生は私はすごく好きだったんですが、初めて抽象画を描けっていう授業があって、どうやって描いていいか分からなくて、例えばこれが美しいと思う曲線を使って組み合わせていくという講義だったんですが、どこから描いていいか分からなかったけど、すごい印象に残っている。

◇ ◇今の学校教育の問題は、土曜日だとか、ゆとり教育が一時あってこれで打ち切ってますが、学校って本当に理解がない。そういう意味で。時間的にカリキュラムの余地もないし

味岡 余地が無いよりもカリキュラムそのものが無い。

◇ ◇造形にしてもセットされたもの、不織布のような科学的なものが入っていて、それで作って今の造パラも皆そう。

味岡 ほとんど美術の授業というのは絵を描くだけです。ところが私が大学で教える内容は美術と言っても、ほとんどが宗教や哲学に近い講義です。それで学生から何が返ってくるかといえば、美術に宗教や思想が関係あると思いませんでしたとレポートで書く学生が多い。私にはそれ以外の何物でもないと思うのだけど、宗教や思想が先にあって、結果として形に残ったものが芸術の問題なのに、学生達になかなかそれが伝わらない。学生達からは、分からないものがなぜいいと言えるのか、それはあなた達美術に関わる人達の傲慢さではないかと問題がすり替わって返ってくる。それは美術とは何かということが全く教えられていないからなのです。

司会 個人的に見てもそういうことは教えられてない。美術が何だってことは教えられてない。

味岡 実は美大でも教えられてない。私の娘たちも専門の大学を出てきていますが、そんなことは、おそらく教えられていないと思います。美大でも描くことが基本。美術とは何かという一番重要な問題は、悲しいかな日本ではないがしろにされてきました。
 日本では明治以来の富国強兵がまだ進んでいるのです。手っ取り早く技術を得て、形だけを繕うことに重点を置いてきたのです。内容やそれを生み出す精神の問題をしっかり教えてこなかったのです。
 なぜ現代の美術がわけの分からないものになりがちなのかという理由は、ものを作るには精神と形式の二つがあるのです。必ず精神が形式を作るのです。100年時代が経ったとすると、精神は当然100年後の精神になる。するとその変わった精神が生んだものが100年前の絵と同じであるわけが無い。今の精神から絵ができるのだから、時代が変わることは必ず精神が変わり、必ず形式も変わらなくてはいけないという、ごく当たり前のことなのです。
 ところが、時にして形式だけは変わらないのです。それをアカデミズムとかアナクロニズム(形式的・権威的あるいは時代錯誤の芸術)というのです。反対に形式が時代と共に変わり、その時代を代表する形式となったものをアカデミック(正統的な芸術)と呼ぶのです。現代の美術とは現代の人間でしかできないことをすることなのです。それが多くの場合、それまでの芸術を否定する形で現れるから、それが拒否反応となって「分からない」という言葉になってしまうのです。
 僕が子どもの頃に美術や音楽に興味が持てなかったのは、簡単に見ることができるものが、現代のものでなかったからです。若いのだから古い100年前のものを見て感動するわけがない。今の時代に生きる人が現代のものに感動するのが当たり前なのです。新しいものに感動できることのほうが本当なのですが、人はどこかで改革よりも安定をもとめてしまうものなのです。
 古いものにももちろん美しいものはあるのですよ。でもその多くは若い人がそんなに感動できるものではない。若い人に対して感動できるものを与えなくてはいけない。それも美術館がしっかりとやっていかなくてはいけないことです。歴史を子どもたちに教え、美術がこうあるべきだということ、そして、美術家、美術館の在り方もしっかり教えなくてはいけない。そして、現実はこうですよということもしっかり提示しなくてはいけない。それが美術館の仕事でもあり、アーティストの役目である。その辺のことを、学校でも美術館でも教える環境を作る必要があるのです。
 そういう問題はこの分野だけではなく、すべての分野で同じように見えます。何故かというと先ほどの洋画・日本画という言葉に掛かってくるんだけど日本の学者は翻訳家が多いでしょ。海外の文献を翻訳するだけで、その人を日本では、翻訳家ではなく学者と呼ぶ。美術評論家でもそうです。海外の美術評論を翻訳して美術評論家と称している人が多い。それは翻訳家であって美術評論家ではない。その人達が美術評論しているからおかしなことになっているのです。いち早く西洋のものを日本に入れるという明治時代の富国強兵が残念ながらまだ残っているのです。
 そして、美術とは何かを現在の先生方は残念ながら教えられないと思います。僕が武蔵野美大で講義をしたときに、宮沢賢治の農民芸術論の一節を使って芸術家はどうあるべきかの話をした。すると後で助手から、今の日本の美大生にはあの話は難しいと言われた。私にはごく当たり前のことと思えることでも、精神的な問題はとても難しいと言ってました。その助手は武蔵野美大に、学生と助手で合わせて8年在籍していた。その彼でも難しいという。このように、美大でも美術は何か、美術は何をすべきかを教えてない。だからそこで教えられてない学生が先生になっても子どもたちには教えられない。いきおい教えられるのは技術的なことだけになってしまうのです。
 美術とは、ものをいかに見るかということなのです。いかに見たかを形にして世の中に提示する。そうなれば、当然、現代を見据えたものが出てくるのです。その中には反体制のものも出てくる。良い芸術は芸術家の意図に関わらず、必ずその時代に対する批判を含んでいるものです。それも現代を見据えるから出てくるのです。

司会 では、活動があまり明確でない美術博物館友の会について何かご意見がありましたらお願いします。

味岡 今日僕が言ったことを啓蒙してくれればいいんじゃないですか。
 まず大事なことは美術館に対して「わかるもの」を要求をしないことです。友の会の会員は美術愛好家ということもあり、美術がわかっていると思っている人が多いと思うのです。そして、美術館にも近い立場だから、何で私たちにわからないものをと、簡単に言えてしまうのですが、新しいものであれば、当然わからないものもある。難しいものもあるのです。「わかるもの」をと、友の会が要求することがあるのならば、それは友の会が最も反省しなくてはいけないことです。
 友の会が、豊橋の美術館があるべき姿に向かうために学芸員の手助けをしたいのならば、自分たちが分からないから美術館が変なものを展示していると簡単に発言したり、自分たちが見たいものを見たいというのは大きな間違いだと言うことを知って下さい。それぞれの人がそれぞれのものを見たいと言えば、結果、総花的な美術館にならざるを得ない。それができるだけの予算の裏付けがあればそれも構わないが、そのことは豊橋では無理と結論がでてしまったのです。
 友の会の一人一人には悪意は無く、良かれと思って発言するのだが、そのことが実は美術館や学芸員の仕事に対して、足を引っ張ることになりかねないという認識を持つことも必要です。
 そもそも美術は分からないものなんです。分からないものを知るということが学ぶということなんだ、というぐらいの大きな心で、美術館や学芸員の仕事を信頼して見守る姿勢が、やがて素晴らしい美術館を作り出すのです。学ぶってことは知らないから学ぶので、知っていることなら学ぶ必要はないのです。

司会 ただそれは受け止める側は分からないけど、味岡さん自身は作品を作るときにはっきりこういうものがあってこうしたいというのがあるんでしょ?

味岡 そう思って仕事しているけど、実現できるかどうかは別の話です。もう一つ美術に関わるすべての人に知っておいてもらいたいことがある。
 世の中には絶対に正しい○のものがある。つまり反対に絶対に×というものもある。それから△、つまり分からないというものがある。そして実はほとんどのものが△なのです。僕が知っている、人間にとって絶対と言えることは二つだけ、生まれたという事実と、必ず死ぬという事実だけ。人間にとって絶対はそれしかないと思っている。
 それは美術でも同じで絶対これが正しい、反対に正しくないということは少ないのです。美術が分かる分からないということの「分かる」とは私が好きだと言うレベルのことで、絶対に正しい美術ということではないのです。そして大半の美術は突き詰めれば分からないってことになるのです。つまり△に。その△を、残念ながら日本人は分からないと言えず誤魔化すのです。
 人はどのような作品を見ても必ず好き嫌いで判断しているのです。そして好きと嫌いはその個人にとっては絶対なのです、好きと嫌いだから理由は要らない。正しいか正しくないか、つまり○と×をつけるには理由が要るのです。正しいと言えば、どうして正しいのかという理由が要るのです。反対に×と理由なくいうことが×なんです。
 でも好き嫌いなら構わず言っていいのです。「私は好きです。」これは正しい表現です。「私は嫌いです。」これも結構です。分からないのに×ということ、これはいけない。そして分からないものを分からないというのは恥ではない。そのまま分からないでいいのです。それは口に出しても出さなくてもいいのです。しかし分からないことを×とは絶対に言ってはいけない。これはとても大事なことです。分からないことは△のまま置いておけば、死ぬまでにわかるかもしれない。でも×としたら、それは一生分からない。分からないものは分からないのです。しかしそれは×ということではないのです。△をできる限りたくさん持ったままでいいのです。
 分からないからそんなもの×だと言ってしまえば、その人は、100年経ってその美術が世界的な評価をされた時には、世界的な美術館や歴史が評価したからあの作品は素晴らしいんだってことになってしまいます。美術を理屈で分かろうとすること、こんな寂しいことはないのです。逆に言えば、どんなに美術館が評価しようが、世界中の美術館が買っていようが、分からないものは堂々と分からないと言うべきです。しかし、それは決して×という意味の言葉を使ってはいけない。皆がいいと言うから○という言葉も使ってはいけない。△の大事さっていうのかな、勇気。それも勇気でしょう。
 実は、僕も最近の美術はよく分からない。特にフィギュアのような美術は分からない。見ても何とも思わない。しかし×だとは言わない。私は今のところ分からないというしかないのが現実です。分からないのにあんなの×だというのは恥ずかしいことです。分かった振りはもっと恥ずかしい。分からないとそれを口に出して言える勇気もまたとっても大事なことです。

司会 ○○さん、今のところで何かお聞きしたいこととか、感想はないですか?

◇ ◇ただだいぶ録画取れたかもしれないよ。美術館ってことも考えて、それに伴って友の会の活動も考えてきて、その中でなんとなく、行きつ戻りつ出口が見えなかった友の会の活動についてすっきりしました。

◇ 今のアートは、普通二次元ですよね。三次元四次元も感じるものもあって、四次元まで入れようとしてるって感じがすごくするんですが。そんな風に分析しない方がいいですか?

味岡 しなくていいと思います。大きな流れで言えば、人間の営みすべてをアートにするという方向で動いていることは間違いないです。
 例えば美術にパフォーマンスという言葉がある。なぜそういったものが美術から出てきたかと言うと、1950年代にジャクソン・ポロックがキャンバスを床において、絵の具を垂らした絵を描いたのです。その時にハロルド・ローゼンバーグという評論家は、我々はキャンバスの中での出来事を見ることになったと言ったわけです。美術家がキャンバスの上で身体を動かし、ある行為をした、その行為を我々は描かれた絵画から見るのだと。そこから、美術家の行為そのものが美術になりうるという考えが、発生したのです。そのような行為をすることは、それ以前には演劇やダンスであったはずなのに平面絵画から生まれたのです。
 ポロックという人間の身振りというか手の動きが画面に定着されたことからアーティストは身体の動きとか、行為そのものを美術にしようと考えたわけです。そして人間の行為そのものを美術にしようという大きな運動が第二次世界大戦が終わった後に起こってくるわけです。
 美術の歴史を大づかみに考えると、印象派から第二次世界大戦が終わるまでの50年は画面の中でいかにして絵を作るかという問題の追求なのです。色彩や形をどうするか、あるいはコンポジションの問題なのです。言い換えれば、形の再現ではなくて、色や形を再定義したり、再構築したり、組み立てなおしたりすることが戦前の美術なのです。その中から抽象主義も出てくる。それがまとまった形でアメリカから新しい美術の動きが戦後始まるのです。表現主義的(ものの再現よりも自分の心の表現を主とする)で、抽象的で、なおかつ大画面にダイナミックに表現することから。これらの作品群を抽象表現主義と呼んだのです。それがやがて世界の大きな潮流になります。
 美術館はそういうことをしっかり歴史を追って教える場であってもらいたいなと思うのです。このようなことは実は大学でもあまり教えてないのです。そのことは美術に関わる人達にしっかり伝えていくことが必要です。
 世界の美術家、例えばピカソにしてもマチスにしても、誰もが知っている人達は、美術史の流れの中にきちっと納まります。その画風の説明も明確にできるのです。
 ところが残念ながら日本の美術は、西洋の美術の時々の流行をそれぞれ別の世代の美術家たちが学んできたのです。つまり西洋を通じてしか日本の美術はつながらないのです。そのため日本の美術だけを見せられる日本の観衆は、ブツブツに切られた美術史を見せられていることになります。それが日本の美術の分かりにくい理由でもあるのです。
 西洋の美術はこれが切れずにつながっているから、西洋の人達は非常に分かり良く美術を見ることができます。そういう歴史の流れがある上に、それを美術教育の中でも教え、それを見せる美術館の運営の形もでき上がっている。
 日本では作家ですら正しく知っていない場合が多いのです。日本の美術大学でも教えてない。大学では、とにかくまず技術だけを学んでしまうから、大事な美術史を知らずに卒業する場合が多いのです。例えば印象派の何が、美術史に新しい流れを作ったのかということすらも知らない人が多い。それは学芸員の人達も実は同じで、全ての学芸員が正しく認識しているかはあやしいでしょう。

司会 ではOさんから今日の感想なりコメントを。

◇ 友の会の方からこういったインタビューを誰がいいか推薦してくれって言われて、N氏と私が真っ先にお名前を挙げたのが味岡先生で、折に触れ、美術館のことは私も聞く機会があって、そんな中で今日は半分・・・・的かなと思いながら、やっぱり聞きたいと思っていたんですが、やはり私も箱物が先行している中で、個人的には人の問題が置き去りにされているなと、あと収蔵庫の方が急務だと思ってましたので、内部の人間ではなく、外の方からそういった声をいただけたということが非常に心強く思って、ありがとうございましたという感想です。

◇ ◇だいたい美術館の方で言ってらっしゃいましたよね。私たちは感じてましたよね。

味岡 内部からは言えないものね。それが声として上がってくるということは結構難しいことです。

司会 そうなんです。この声というのをどういう風に上げて、具現化していくか、どう交渉していくかは結構難しい。

◇ 新しい箱物っていうのが出たときにそういうものも解決するために一挙にという風に今言われてみれば本当にそうですよね。

◇ ◇ふくまれていましたよね。収蔵庫は急務であるにしても、改修、改築ってこと自体がなくなるんじゃないかって。建設と言っていて、改築がやっと叶うんじゃないかという見通しまであったりして。

司会 現実的に言えば、新館を作るなんてありえないと思いますよ。

味岡 でもいいんじゃないですかね。いいものをどう作るか。いいものっていうのは建物じゃなくてね。いい展示をする。それ以前にいい学芸員の研究が必要です。まだ言ってなかったけど、ほとんどの人に美術館が研究施設であることの認識が無い。作家は自分の作品を飾ってくれるところとしか考えてない。例えば美術館検討委員会のメンバーの地元作家たちは皆自分のものを飾ってもらえるつもりで話している。一度だって他の公立美術館で企画展の招待があるのかと言いたい。言うと喧嘩になるから言わないけどね。そして、見る側もまた展示室しか見ていない。

司会 システムとしての、装置としての美術館しか見てないですもんね。

味岡 展示っていうのは学芸員が練り上げた最後の舞台。そこまでいく間に膨大な資料を作るのです。しかし、一冊のカタログになるとその資料はどこかに眠ってしまうんだよね。本当はその資料が大事なものになるのですよ。展示できなかった資料が実は膨大な筈です。それがすべてアーカイブされ閲覧できることがとても大事なことではないかと思います。1冊のカタログでは、発表できるのはごく一部だけになってしまう。学芸員の勉強したノートのようなものは私的なものとして埋もれていってしまうが、それらも貴重な財産として後からでも見れる状態であった方がいい。横道にもそれて、いろいろ検討した過程っていうのも、大事な資料になるはず。その辺もいい形で公表されるようになればとても素晴らしいですよ。
 すると学芸員の仕事は展覧会だけじゃなく、より厳しい評価の目にさらされるようになるが、良い厳しさは励みだと思うのです。そういうような環境ができ、そういう量が膨大になれば、量の中から優秀な人間が出てくるのです。量は必ず質を凌駕しすると私は考えています。

◇ 若い方が入らないといけないですよね。だって今の方だってだいぶこうなってきているものね。

味岡 今何人ですか?

◇ ◇今は三人です。大野が定年退職まで4年くらいで、その下が私とマルチで、それきりマルチの下が17年18年入ってきてません。マルチは38歳になりました。歴史の分野においても今1人だけですから、本当に切実に手が欲しいです。

◇ 入ってすぐから大きなことができるわけないですからね。誰でも下積みでお手伝いしながら覚えて、いろんなことが分かっていくでしょう。

◇ ◇経験を積んで、資格だけの問題じゃないですから。

司会 一般的には美術館の仕掛けって言うのは学芸員の機能はあまり理解されていない。ただ詳しい人とかそういう感じだよね。本当はプロデューサーだったり仕掛け人だったり。

味岡 そもそも日本の美術館の発生が、本来の形で発生してないからそれは難しい問題はあるのだけど、

◇ ◇豊橋なんて、いろんな展覧会のお誘いをしてもなかなか学校からは来ないんですね。それから家庭では例えば子どもをつれて本物を見せたいということで美術館に行くということはあると思うんですが、先ほどの子どものためのワークショップみたいなものとか、子どもと美術っていうことはどうですか?

味岡 本当に面白かった。その時は僕は土を使った美術を発表したのです。刈谷市の福祉施設を建てる建設現場の土をパワーショベルで30センチ毎掘り出した、それを30×30×180センチの箱に掘り出した順に24箱詰めたのです。その箱詰の作業を終えて、サンフランシスコの個展を終えて帰ってきた頃には土も乾き、固まっていました。それを箱から出して並べたのです。子どもたちは土で自由に描かせることで、土が地層ごとに色を持つことと、それが絵の具になることを知ってもらいたかったのです。

◇ ◇地層のままに掘り出したっていうのは・・

味岡 地上から下まで順に掘り出していくと、色が順に変わっていることが見えてくるのです。僕の大きな絵画作品に地層の順で土を塗った縞の作品があります。それを子ども達にも作ってもらったのです。子ども達は力がなく僕のようには塗れないのですが、こういう塗り方があるのかと僕が勉強になったほどです。
 愛知子どもの国での展示では、枝を集めて、壁にインスタレーションしました。それは誰が見てもとても美しいといえるものでした。愛知県児童総合センターは今は長久手に戻った。そこの責任者に素晴らしい方がいるのです。東京の青山の子どもの国だったかな。(◇◇児童館の総本山です)そこから愛知県に招かれた方です。
 そこでは、今日最初に名を出した鈴木昭男や、金沢健一さんなどの現代音楽で世界的に活躍する人達が子どもたちのために作品(楽器)を作っているのです。その一環で私にも作品を子どものためにインスタレーションを依頼されたのです。しかし子どものためだと思って作らないでください、子どもたちは必ず理解できます。子どもには必ず大人が付いて来ます。今、教育が必要なのは、子どもたちではなく、実は大人たちです。その活動を手伝って下さいと言われて作品を作ったのです。
 素晴らしい担当者でした。今度できる豊橋の児童館もそんな人が来たらすごい良くなる。建物はどうでもいいのです。素晴らしい人が来ればがらっと変われます。しかし、それには大きな勇気がいる。その一人に信頼を置いて任せる勇気です。あのセンターを作った時、愛知県でその人を招いた人もきっと素晴らしい勇気の人だと思う。あれだけの人の下にいるのだから若いスタッフも素晴らしい。
 僕は何日間か通い詰めて思ったのですが、子どもの教育は児童館と、決めつけなくていいような気がするのです。例えば豊橋は図書館も児童館もできてしまったから仕方ないことだけど、仮に新美術館ができたと考えれば、そこに当然のこととして、ミュージアムショップは作りたいでしょ。そこには美術書を置くスペースも作ることになる。
 そのとき、豊橋の文化行政が大きなまとまりとして考えられていたら、美術館に続いて図書館があれば、図書館の中に子どもから専門までの美術書が揃っていて、図書館を歩いて行くとそのまま美術館に入っちゃったというような一貫した文化施設があってもいい。その中にはミュージアムショップもあるというよう形は、とても素晴らしいはずです。建物を造るのなら、本当はそういうような所から考えたい。大きく、長い目で見た、豊橋の文化のあり方があると思うのです。
 美術と言う言葉が始めて使われたのはパリ万博からなのです。日本が初参加するとき、美術を「音楽・画・学像を作るの術、詩学等を美術と云」としたのです。その当時は音楽も文学もすべて美術に入っていた。そのように考えて、美術というか芸術を大きく捉えればミュージアムショップの美術専門の図書館は要らないでしょ。子どものものから専門の美術書までが、一つの流れの中で揃っていて、自然に専門的な領域まで行ってしまうのがもっともいい形ではないでしょうか。これは子どもにとってもとても良いことのはずです。予算がなければそういう考え方がなおさらに必要です。
 豊橋の文化全体をどうするのかというグランドデザインが必要なのです。特に地方に行けば行くほど、それぞれの部署が、それぞれに予算要求するのではなくて、大きなグランドデザインの中で決定していくことが限られた予算を有効に使うために必要な方法だと思います。

司会 そこが難しいとこですね。トータルで文化を考えるってことが。

味岡 一時「CI」つまり企業のコーポレートアイデンティティという言葉が流行ったじゃないですか。CIの世界で一番早い例がIBMなのです。その時IBMは何をしたかというと、それを担当する副社長をデザイナーにしたのです。その件についは、代表権を持つに近い権限を与えたのです。その結果IBMがCIを確立でき、それが今も世界の模範になっているのです。そういうものが豊橋の文化、それは教育でも同じです。それは実は担当者を誰にするかにすべてがかかっているのです。

◇ ◇図書館も研究機関でありながら理解されてないんですよ。

味岡 図書館はまだ美術館に比べれば理解されているのですよ。不遇ということでは同じですけど、図書館が美術館と決定的に違うのは、図書館は永遠に赤字の許された施設なのです。費用対効果の問題は図書館に関しては出ないのです。何故美術館もそれではいけないのか。
 図書館に必要な予算が来ているか、それをしっかり運用できているか、便利に出来ているか、司書の待遇はどうか、司書が本当にやりがいのある環境ができているかという問題に関しては美術館と同じことだけど、少なくとも、美術館の独立採算が問われているようなことは図書館にはないのです。

司会 いろいろと話が尽きませんが、時間も参りましたので、お聞きするところは一応全部お聞きしましたので、ありがとうございました。