ブログ 田舎暮らし 生け花

▼2009-10-22 15:47
野茨

もうすっかり秋。野茨の実も色づきだした。拙著「花頌抄」では11 月20日に生けている。



今年は少し早いのか。台風のためか、葉がほとんど無い。かえって、それが面白くなった。




▼2009-11-25 09:36
屁糞葛

個展もやっと終わり、ほっと一息。余裕ができ、庭の草花にも目がむくようになった。個展の前は青かった屁糞葛も少しだが葉が黄色に色づき、褐色の可愛らしい実を見せていた。台風の風と塩害の影響で紅葉がなかった我が家の庭にも秋が深まってきた。




▼2009-12-30 17:12

仕事納め

今年もいよいよ終わり。仕事納めは例年のごとく、自宅と事務所に注連縄と花を生ける。今年は台風の影響なのか、竹の葉が枯れている。庭の南天やピラカンサの赤い実が全て鳥に食べられてしまった。それでも、どうにか花材を集めて生け始める。最初は門松ならぬ、竹と南天。事務所の柱に。



入口には注連縄を、今年の注連縄は鳳来町で買った。豊橋市内でよく見かけるものとは少し違うようだ。続いて、事務所の1階には松を生ける。正月らしく、幣を下げてみた。



自宅の玄関。竹に藪椿。今年は椿の開花が早い気がする。同じようなものを事務所の壁面にも生けてある。



さらに、友人の服飾のデザイナーにも頼まれ、生けにでかけた。



その都度違う花と場との関係に反応すること、大した事も出来ず、ただ自然に投げいれているだけだが、それがとても面白い。
やっと新年を迎える準備ができました。皆さんも良いお年をお迎えください。



▼2010-01-29 09:40
JAGDA CALENDAR SALONE 2011

私が野の花を生け、俳人、星野昌彦氏が俳句を詠み、宮田明里が撮影した、花頌抄 を日捲りカレンダーに再構成した。
 犬の花子と近くの河原に散歩に出かけるのが日課である。おかげで体重が僅かだが減った。河原の景色は毎日密かに変わっていく。同じものを見続けることで変化に気付かされる。盆を過ぎたころ、早朝に萎んだ白い花が雑木の間に目立ってきた。夜に咲き朝には萎んでしまい、人に隠れて咲く花もあるようだ。8月21日、咲きそうな蕾を常滑の壺に挿して待つ。夜9時、突然動きだし、仙人の髭のような白い紐を伸ばして烏瓜の花が咲いた。9月6日、緑の葉の中に見え隠れして烏瓜の実が姿を現した。大きさ6cmほどの卵型。西瓜とは反対の緑に白い筋。9月21日、実は赤く熟し、白い筋は消えていた。11月13日、葉が落ちた雑木林に朱赤色の実が垂れ下がる。やがて褐色に黒ずみ冬を迎える。日々変わる自然の移ろいを感じられる幸運に感謝し、花を摘み、生け、詠んだ一年を辿る「花捲り」。(展示用コメントより)
 1年365日、季節の移ろい、花の変化を感じながら1日1枚捲っていくことは、本とはまた別な楽しみではないだろうか。









▼2010-02-15 13:57
花は梅

今週も週末は湯谷で過ごした。市街地から数度は低い気温のはずだが、あちこちで梅が咲き出し、山里にも確実に春が近づいている。花は桜となって久しいが、私はやはり梅がいい。冬、枯れた黒い野に小さな白が清らかだ。そして何より、直線的に太い幹が交叉し、垂直に伸びる細い枝に可憐に咲くその姿がいい。湯谷の土地は、8年無住だった。以前、庭だった形跡は残るがすっかり荒れている。梅の枝にも蔦が絡まり、枝が伸びほうだいだ。蔦を取り外し、枝の絡んだ部分を剪定する。少しづつ、好みの空間に変わっていく。切った枝は事務所に活ける(というほどでもないな)。




▼2010-03-18 19:45

太神楽がやってきた

なんとも豪快な椿がやってきた。大輪で華やかな咲きぶりはいかにも太神楽の名がよく似合う。花弁が複雑に絡み合って咲くことを「獅子咲き」と呼ぶが、伊勢太神楽とは、かつて獅子舞をしながら伊勢神宮の御札を配布してまわった人々のことで、名の由来もそこかららしい。
 予告なく、突然の訪れだが、なにぶん既に満開。仕方なく、仕事は一時中断。急ぎの仕事がなくて良かった。(秘密だが、実は仕事よりも花を生けることの方が楽しい。)しかし、問題は山積みである。
 そもそも他人が切った花材は使いにくいのに、花の大きさに比較して、枝が極端に短かい。ところが、主義として、出来る限り剣山は使いたくない。花材の形状と重力と、花器の関係で、生けたいと常々心がけている。そして、貧乏性だから選ばず全て使いきる。その全てを満足させるのは、なかなか難しいが、まったなしで、一期一会を楽しむ、これが「花の醍醐味」でもある。
 頂いたのは六枝、自作の茶碗を一枝に一碗。合計六碗を一列に並べることにした。これなら短い枝でも器の壁が支えてくれる。一輪ごとの豪快な咲きっぷりもよく見えるし、花器も負けないだろう。正直、自分ではなかなか選ばない花材だが、それゆえのギャップとの戦いとその戦果もまた、花を生ける楽しみである。



突然の来訪者はこれだけではなかった。月光椿、侘助と事務所は一時の椿づくし。





長く楽しめる花だが、そろそろ今年の椿も終わりが近づいてきた。



▼2010-05-26 20:06
赤詰草

一度花を生けだすと、事務所に花がないとどうにも寂しい。常に欠かさないようにしている。しかし、あまりに日常で、ブログに書くほどのことはないと遠慮していたが、時には写真に残すこともある。別に特別なものではないが、一応載せることにした。



河原の草の中から茎を伸ばして咲いていた赤詰草である。ザクザクと回りの草もろとも切り取り、他の草は一茎だけ残して。古い手提籠に投げ入れた。なんの調整もしない。野の花はそれで充分だ。かえって、栽培された花のほうが私には難しい。
 姿は同じで白い花が咲く種もあり、それは白詰草と呼ばれる。江戸時代にガラス器の梱包にこの草が使われことからの名である。明治になると飼料用に導入された。この季節になると、どこにでも咲いている。命名からして不運な花だが、なかなか美しい。来る人来る人、花の名を聞き、どこで手に入れたと聞かれる。一般的にはクローバーで知られ、だれでも知っている花なのに、雑草を生ける習慣がないため結びつかないのだろう。水揚げも楽だ、切った直ぐは少し首がたれた感じだが、たっぷり水を与えれば直に首を持ち上げてくる。
 私には野の花が似つかわしい、と思う。栽培された花は華やかすぎて、少し恥ずかしい。姿も流通が楽なように均一になっているものが多い。その点、野の花は一つ一つ違う。多くは水揚げも難しい。花も小さい。しかしその楚々としたなかにも、凛とはりつめた佇まいがいい。


▼2011-05-06 10:26
湯谷の春

ゴールデンウイークの数日は湯谷で過ごした。とは言っても、ゆっくり過ごしたわけではない。すっかり春になり、元気になった自然の猛威に被われてしまう前にと、敷地の手入れに追われてしまった。入口の作品も春紫苑に埋もれて良い具合。そのため、草取りもできない。そうこうする内に雑草に被われてしまいそうだ。



桜も終わり、河のせせらぎも新緑も今が盛りに美しい。





回りに花を欠かすことはないのだが、わざわざ紹介するのは気恥ずかしかったが、新緑にさそわれ、久しぶりに生け花を写真に撮った。



花の名は分からないが、長い枝に小さな花がついていた。長い枝を四等分に切ってそのまま壺に投げ入れた。こんな活け方もあっていい。



桜が終わったと思ったら、山には藤が満開。それもゴールデンウイークの終わる頃には、他の花に変わっているのだろう。


▼2011-06-10 17:47
どくだみ

どくだみの似合う季節がやってきた。馴染みの古道具屋さんで花器として格好の竹籠を手にいれた。片隅に埃を被っていたのを目にし、落としを使って花器にすれば活けやすいと思ったが、案の定、何にでも良く合い重宝している。落としにはペットボトルが便利だ。ペットボトルは太さが2種類あるし、長さも自由にカットできる。透明なのもいい。この竹籠には大きいサイズのボトルの頭を切って使っている。竹籠の編み目に紛れて目立たない。



ところで、ブログに掲載したのは、生け花として見てもらいたいのではない。入手した古道具屋さんにも尋ねたが、この竹籠の用途が分からない。その後、数人に尋ねたがだれも知らない。どなたか教えてください。


▼2010-06-15 15:55
梅とり

梅雨の始まる前にと、毎年恒例のスタッフ全員で庭の梅とり。ここ数年は一輪車一杯ほどだったが、今年は豊作、3kgごとに計量して20袋、60kgにもなった。数回に分ければ全て適期に収穫できるのだが仕事を何日も休めない。青い実や赤い実が混じってしまうが我慢我慢。スタッフ、姉妹に分け、収穫の日は毎月定例の編集会議。春夏秋冬叢書の編集メンバーにも分けて、やっと全量さばくことができた。



今年からは孫の旭がお手伝い? 収穫が終わるとさっそく梅雨入り宣言。おかげでどうやら間に合った


▼2011-06-13 14:16


今年も梅の収穫の季節がやってきた。毎年、梅雨の合間をぬって半日梅取りをする。今年は例年よりも少し遅い。傷のあるものもあるが、豊作だ。庭に数本あるだけだが、一輪車で約2車になった。



これを処理するのが大変だ。収穫後すぐに連絡して、配ってしまわなければならない。満足に手入れをしないため、梅以外の枝も伸び放題で、そのためか日陰になった実は小粒だったり、傷が多い。収穫しながら枝の剪定 ?もした。その枝で活けてみた。



実は、昨日は湯谷の家で一日草刈り、いったい、仕事もせずになにをやっているのやら。草ぼうぼうでもそれが自然だと、街に住むと思いがちだ、しかし、草を刈らないと、草にかくれた蝮にかまれるぞと村の人に脅されている。
 言葉通り、昨日も草刈り中に突然蝮が現れた。実は、先週も蛇をみた。今年はすでに三度見たことになる。山の人が草刈りするのは、景観だけではない。特に道端の草刈りは蝮避けとしても大切なのだ。山での生活は実に自然との闘いだ。


▼2011-07-21 14:35
たかが生花、たかが茶碗。されど

小さな旅の話題を一つ。まず最初の目的地は、徳川氏の発祥地松平郷に程近く、一万六千石の親藩として奥殿藩の歴史と文化を今に残す、岡崎市奥殿町の陣屋で行われる骨董市。緑のなか、20数軒が店をだしていた。さして大きな骨董市ではないが楽しめる。おそらく常滑のものだろう壺を一つ手に入れた。その価値は知らない。求める基準は花活けに使えるかどうか。沢山持っているつもりだが、見るとほしくなる。



毎朝の花子の散歩とトイレをすませ次の目的地、津の石水博物館の新館開館記念の所蔵名品展「川喜田家歴代コレクションと半泥子の芸術」にむかう。
 半泥子は百五銀行第六代頭取他数々の企業の要職をこなしながら、書画、茶の湯、俳句、写真など実に多彩な創作活動を行い、なかでも陶芸は私個人の意見だが、近代の日本の陶芸では最も優れた作家である。
 素人の遊び心を忘れないその天衣無縫な作陶は他の追従を許さない。期待して出掛けたのだが、第一展示室の「川喜田家のコレクションから」の長次郎の黒茶碗と朝鮮の三碗が圧倒的だった。
 そのためか第二展示室、お目当ての「川喜田半泥子の茶陶と書画」が霞んでしまう。半泥子を今まで見誤っていたのか。いや、そんなはずはない。半泥子にはもっと良い物があるはずだ、きっと学芸員の選定の誤りに違いがないと、愚痴をこぼしながら、博物館を後にする。
 帰りは高速を戻るのが時間的には早いが 鳥羽からフェリーで伊良湖経由で帰ることに、1時間に足りない航路でも海を渡ると旅した気分になる。結局、三河湾と伊勢湾を一週してしまった。それでも朝7時半出発で、夕方5時半到着。予定通り「笑点」に間に合った。
 その後、念のため半泥子の図録を眺める。やはり、もっと良い物がある。同時に並んでいた近代の陶芸家の作品はさらにつまらない。せっかくの半泥子の本拠地での展示が残念だ。学芸員には半泥子に恥じない眼を持ってもらいたいものだ。
 半泥子の随筆「泥仏堂日録」の「茶器の約束とは何ぞや」に「作人を問題にするな。同一作人でも出来不出来がある。」とある。まさか、半泥子本人だけは例外だ、とは言えないだろう。
 明けて、求めた壺に早速活けてみた。



毎朝の花子との散歩で見つけた、豊川沿いのまさしく「どてかぼちゃ」。たかが生花、たかが茶碗。されど生花、されど茶碗。


▼2012-03-16 18:35
薮椿

事務所が鋭角に交差したため、残された三角形のスペースに、いつもは忘れられている一本の薮椿。それでも、時期になると精一杯の花を咲かせて、応接室の窓越しに、一年に一度、ささやかに主張する。窓からは見えない位置に蕾が沢山ついた枝があった。一週間ほど前に、投げ入れておいたら、暖かさにさそわれ、見事に咲きそろった。



初春に何も無い頃、楚々と咲く梅もいい。間もなく、豪快に咲き、潔く散っていく桜もいい。だが、室内に生けるのならば、椿がいい、侘助も捨てがたいが、やはり、薮椿がいい。深い緑に、華やかな赤、少し開きすぎた感もあるが、それもまた、村娘にも似た鄙びた風情だ


▼2012-03-21 12:03
椿の籠盛り
つい最近、椿のことをブログに書いたら声が届いたのか、大量の椿が籠盛りでやってきた。いただくのはありがたいが、どうせならば、籠のなかに石皿でも入れて、そのまま飾れるように届ける親切心はないのかと、虫の良いことを言ってみたが相手にされなかった。まあ、当然か。
 それにしても大量の椿、それも多くが咲き出している。花にまってとは言えない。さっそくありたけのガラス瓶を籠の中に埋め手当たり次第に投げ込んだ。



毎日、次々と花が咲き、落ちていくだろう。その都度、直さねばならないがしばらくは楽しめそうだ。


▼2012-06-01 10:26
どくだみ

今日は6月1日。まもなく梅雨。庭の どくだみ も名前ににつかわしくない可憐な花を咲かせる季節になった。長く庭の片隅に忘れられたかのように放置されていた、安物の柿釉の擂り鉢に水をはり、浮かべてみた。



庭の御影石のテーブルの上にて





事務所の応接にどくだみ特有な香りも懐かしく、この季節になくてはならないものになった。柄にもなく、花を生けるようになって以来、事務所に花のない空間は耐えられなくなってしまった。花の命は短いが、空間における存在の強さに、日々、驚かされている。そして、花と花器の一期一会の出会いの見立ても、日々、面白い。


▼2012-06-11 14:05
チョガッポがやってきた。

ブログで、韓国ソウルで見たチョガッポについて書いたばかりだったが、先週末、鵜飼恵子さんが、恒例の夏の展覧会の案内状用の作品を持って、私のスタジオに顔を見せた。それが、なんとチョガッポのタペストリーだった。

チョガッポの魅力は風に揺られて透ける風情だろうと、梅雨の合間をぬって、豊川の河原で早速撮影。涼しげな案内状に仕上がった。



この頃になると、豊川の河原に野薔薇の赤い実がつく。飾り付けの当日になると、「赤い実のついた野薔薇が会場にほしい」と電話があるのも恒例になってしまった。


▼2012-06-12 14:03

63歳は不作の年。

昨日は梅雨時定例の梅の収穫。



庭に5本の古い梅の木があるのだが、手入れもせず、回りの欅や榎などがが育ちすぎ、陽当たりがわるくなった上に、昨年の収穫時に、伸びきった枝をでたらめに切りすぎたせいか、今年の収穫は、たったの13kg。



一昨年は60kgも収穫があったのに。もしも、例年のお裾分けを期待していた方がおられれば、今年はごめんなさい、です。



実のついた一枝を投げ入れてみた。なんということもないが、今年も早くも半年が過ぎてしまったと、昨年も思ったような気がする。最近、本当に時間の過ぎるのが早く感じられる。これは、もしかしたら年のせいか?と言われる前に、「充実してるんだ。( ? )」と思うことにしよう。


▼2012-12-04 10:56
昨日は雇われ? 生花家でした。

今日から、鵜飼恵子さんの展覧会が始まった。いつもの通り、美しい素材で創られた数々で会場は華やかだ。



昨日は飾り付け。会場用にと、花子の散歩の途上で見つけておいた、太めの蔓梅擬きをわざわざ前日に届けておいたのだが、途方にくれているとのお言葉。丁寧なお言葉だが、つまりは、花材は届けるだけでなく、最後まで責任を取れとのこと。心配していた通りの展開である。
 水揚げは難しいので、葉は全て落とし、正面のウインドーには、太い枝を選んで、壷に投げ入れる。



私のタペストリーより、花のほうが目立つと文句が多い。知らんぷりして、内部には余った枝を丸めて置く。花器がないので、とっさには、この手しか思いつかない。



正面の壷にも水は入れてはない。蔓梅擬きは水を切れば、実が爆ぜ赤みも増してくるので、この方法でも面白く生けることができる。
 これはこれでよいのだが、花は花器があったほうが、形の必然性が定め易い。地面から、切り離された花の根元が、花器がないと落ち着かないのだ。もちろん、水の供給も重要な役目だが、花器の重要性はそれだけではない。


▼2013-05-07 09:21
今年はサクランボが豊作だ。

庭に植えていたサクランボの木が今年初めて実をつけた。小粒だが、豊作だ。摘花しておけば大粒になるのだろうか。赤い実を選んで食味してみたら、ほんのり渋みがあるがなかなか美味だ。都会ではないが、こんな町中でサクランボは期待していなかったが楽しみが増えた。ハ






孫の旭も早速サクランボ狩りにご満悦である。少し前になりますが、松永真さんから娘のことを聞かれ。子供ができて、事務所が託児所になってしまいましたと、答えたら。「孫は可愛いだろ。息子は許せないが」と言ってました。因みに松永さんは男が二人。私は娘が二人。どうぞ、爺馬鹿と言ってください。
 サクランボを味見している内に、蜂の巣発見、蜂を追い払い、巣のついた枝を切り落とし、壺に投げ入れた。



生けたというほどのものではないが、サクランボは初物でした。



▼2013-06-07 16:30
梅の収穫

今日は朝から梅の収穫。自宅の庭には梅の古木が5本ある。毎年、6月の初めが梅取りの時期だ。





昨年は不作で、やっと13キロの収穫だったが、今年は粒も大きく、計ってみたら73キロ。




友人たちに分けるために、粒をそろえて、3キロづつ段ボールに分けるだけで3時間以上かかってしまった。
 湯谷の家にも小梅と梅がそれぞれ一本ある。益子に作陶に出かけている間に熟しすぎて、小梅は駄目にしてしまった。全てが収穫できたら大変なことになる。実がなる木があるのはいいのだが、実ができすぎるのは困ったものだ。



日当たりのよい実はほんのり赤くなって花材としてもなかなか。投げ入れてみた。


▼014-05-28 17:38
紫陽花の季節

毎週水曜日の午後は愛知大学で芸術論の講義。二コマを連続で、疲れ果てて帰ってくる。いつもは、もう何もする気もなく、本日終了なのだが、今日はちがった。ドアを入った正面に、さあ生けろとばかり、紫陽花がバケツに入って用意されている。出かけている間に、野草料理研究家のゲテ高橋さんがこられたとのこと。しっかり、水揚げされているようなので、さっそく、涼しそうな竹篭に入れてみた。



はやいもので、もう梅雨がやってくる、季節になってしまった。


▼2014-06-03 16:35
梅の実

今年も梅取りの季節がやってきた。毎年、梅雨の前に、庭の梅を取る。昨年は豊作だったが今年は少ない。一輪車一杯プラスαで37?。昨年の約半分である。しかし、これが普通なのだろう。あまり多いと配る作業が大変で昨年は苦労した。昔は普通だった梅を漬ける家が減っているのだろう。例年のごとく、枝振りを選んで活けてみた。



もう少し採取が遅いと、ほんのり赤みが出て可愛らしいのだが今年の梅は皆青い。おいしい梅酒ができるだろう。
 前回の紫陽花と同じ篭に入れてみた。この篭は何にでもよく似合う。落としは、ペットボトルをもっぱら使用する。高さが自由にカットできるので重宝だ。肉厚も薄いので水も沢山入る。


▼2014-12-02 13:03ハ
年に一度の出張生け花師です…? 

古くからの友人、鵜飼恵子さんの木綿の仕事の発表が始まった。



例年のごとく蔓梅擬きと野茨を差し入れた。当然、活けなくては帰れない。その場にあるもので、なんとかごまかして帰らしていただく。これもお約束? 今回の花器は籠ばかり、大小幾つかが用意されていた。
 まず最初はウインドーに蔓梅擬き。枝元を丸め大きな籠の内側にはめ込む、蔓梅擬きの蔓は籠の縁によくなじむ。あとは枝が勝手に形を作ってくれる。



余裕のある会場ではない、お客に野茨のトゲがあたるため、高い位置に籠をかけ選んだ一枝を投げ入れる。



これで差し入れの花は終わりだが、藪椿と南京櫨があると差し出され、背の高い枝をさてどう活けよう深い瓶や籠がない。南京櫨は手提げの網籠の口を麻縄でしめ壁のコーナーに立てかける。落としを入れず水を切った。会期中にはおそらく殻が割れ白い実が出ると思う。



藪椿は残った籠を三つまとめてそれぞれに落としを入れる。花器に奥行きが生まれ。会場の一角に藪をができた。暖房のあたたかさで会期中には満開になるだろう。



残った蔓梅擬きと野茨は、事務所の玄関にまとめて投げ入れた。



蔓梅擬きの朱の華やかさ。突然の正月ムードだが、今年中に仕上げたい仕事(?)は山ほど? ある。それでも仕事(?)ばかり、ではつまらない。