1997年10月、初めて土に火を入れる。ここでは火は接着剤としての役割を担うことになる。あらゆる土が用意された。もちろん、それらの多くは粘土ではない。特別な地区、特定な土として選ばれることも無く、特集にあたり個人的な好悪が反映されることも無かった。水簸や、ふるいの工程にかけられず、もちろん原土のまま、混ぜ合わされたり、寝かされることも無かった。すべてが径15cm高さ8cm程の茶碗の形に成形された。大小の石が混入し、可塑性も低い。その土だけが作り出すことが可能な形が結果として残された。乾燥され、一律に1250度で焼かれる。あるものはヒビ割れ。石がハゼ。3割以上縮み、溶けて形を保てないものすらある。多くは水を止められることもできない。 一般的な土の長所も短所も、その結果も含め、土の持つ全てを受け入れ、土あるいは自然にその営為の全てを委ねることにより、土はよりそのリアリティを現前させることが可能になった。土と人との健康的で友好的な関係は、土の持つ自然の豊かさと、個としての作家との間に新たな表現を生み出すことになる。その営みは、土を利用する、あるいは土を生かすという一方的で従属的な関係による個の表出とは明らかな違いがある。 ところで、何故「茶碗」は選ばれたのか。1250度で焼かれた土のサンプルとして提供することで現代美術として成立するのであれば、それは例えばレンガやタイルの形状で充分であろう。しかし、それはあまりに常套的でミニマルアート的で現代美術的発想でしかない。 手びねりの痕跡を止めるマチエール。その可塑性による必然的な形態。そこに土と人が係わる意義も生まれてくる。しかし、そのこと以上に重要と思われるのは、茶碗が持つ、実用でありながらそれ以上の存在としての歴史にある。すなわち形としての一般性に比較して、それに注がれる意識の特殊性が茶碗を選択させている。 内に空間を持ち、受け入れることにより、出会いに創造性が生まれる。そのことを茶人は一期一会と呼んだ。個人性の否定は受け入れることでもあり、そこには計らずとも生まれる表現がある。 茶碗は受け入れる器としての「容」であり、人を受け入れる出合いの空間としての茶室。それがインスタレーション「穹」(キュウ:弓状の空間。テント)である。