Art works


味岡の作品は、東浜田や高松といった国内各地の断層の一部の土を採集して、それにボンドを混ぜてキャンヴァスの平面に固着させたものである。取り出した土を地層そのままの順に均等の幅でキャンヴァスに水平に並べていく。もうひとつの方法は、それらを格子状に組み合わせることである。数年前に稲沢では美術館の前の公園を垂直に掘り出して、それを床に並べる作品を発表していたが、今度はキャンヴァスの平面である。
 キャンヴァスに塗られた土の色の鮮やかさに驚かされる。われわれが日常的に目にする「土」の色は、どれでも一緒に見えてしまうが、さまざまな異なった色の世界をそれぞれの地方がもっているようだ。われわれが踏みしめている大地そのものがが、じつは各々の色彩秩序をもっていることを味岡はさまざまな作品で明らかにしている。
 さらに興味深いことに、それがそのまま芸術作品の秩序にも転化しうるのである。そして、製品化されていない段階の土、つまり、まざりものの多い土がもつ表情の豊かさと素晴らしさ。味岡の作品を見ると、近代絵画がイメージの正確な虚構性をつくりだすために、均質化された「純良な」工業製品と抽象的な色彩チャートを必要とし、一方でこうした、まざりものの世界を捨ててしまったことがよくわかる。
 しかし、味岡は自然を崇拝するエコロジストではない。なぜなら、「自然」が美しくもなく、ナイーヴでもなく、手を汚すものであることを味岡はよく知っているからだ。味岡によって用いられた土が自然の一部であったことは確かであり、画面上の土の配列についても土の歴史を尊重する態度は崩していない。味岡の制作理念は、自然に対してできるだけ人工的な行為を避けて形をつくりだすことであった。
 ところが、今回の作品はひとつの平面という人工的な「虚構」の形式を与えることで、「土」は確実に異化して「自然」らしさを失っている。ただ、自然らしさを消す人間的な「虚構」システムが、逆に土のマテリアルそのものと大地の秩序を明らかにするのである。自然そのものに潜む意識的行為とその意図を味岡が逆説的に見せているのだ。
 従来の近代芸術が、自然に対して人工的な色彩システムと空間システムを芸術作品へと適用していたとすれば、味岡の手法は自然自体に「人工的」構成的手法を発見し、それを「平面」に還元して、わかりやすい形で提出することであったように思われる。「平面」という人間の行為がわずかに加わるだけで、自然の作為そのものが目の前に現れるのである。
 これは自然との共同制作であるといえよう。そのとき、自然=カオス、人間=秩序をつくりだすもの、という近代的な征服図式、さらに自然の「カオス」と共存することを主張するエコロジカルな見方からも解放される。必要なのは、自然と意識を共有することである。そのなかでこそ、脆弱な人工的なイメージとしての芸術でもなく、汚らしい自然のモノでもない作品が生まれてくるのだろう。味岡は土に手を汚しながら、土をキャンヴァスの上で鮮やかに別のものに転化する魔術的な仕事をしているのだ。

(美術手帖) 拝戸雅彦